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おうのさん

どういうタイミングで書こうかな〜と常々思っていたのですが、
ああ、今日がいいかな?
元治元年の今日11月25日は、九州を発った高杉晋作が馬関
(下関)に戻った日といわれています。
長州にいると危ないので福岡に行ったくらいだから、
帰ってきてもアブナいアブナいbomb
そこで、遊里に潜伏することになりました。
12月15日の功山寺決起あたりまでのことです。

現在下関にある東京第一ホテル裏あたりが昔、稲荷町と
いわれ、賑わった遊里です。
風情ある建造物とか、今は全くありません。

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唯一、稲荷町の名残を留めるのが稲荷神社です。
ここら辺りに住む商人や芸妓さんたちが熱心にお参りしたのでしょう。

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表の稲荷町に対して、「裏町」と呼ばれる色里がありました。
そこに「堺屋」という妓楼があり、高杉晋作の運命の女性
おうのさん(源氏名:此の糸)はいたのです。

Uno

高杉とはいつ出会ったのか、はっきりわかっていませんが、
この九州から帰った時はすでに身請けされていて
高杉の愛人となっていました。身請けのお金は白石正一郎が
出したとか、入江和作が出したとか、これも諸説ありcoldsweats01

しかし二人して思い出の堺屋で潜伏して、功山寺決起に
至るまでの日々を過ごした、という説があります。


高杉晋作がいかに彼女を大切にしたか、という話は
残された手紙などにも現れていますが、
わたしは「長崎みやげ」といわれるビロードのかばんが
彼の深い愛情を物語っていると思っています。


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柄物のビロードに、真鍮の金具がついたこのバッグsign01
150年前くらいのものですよ。しゃれてますheart04
しかも英国製ですよ。まわり、誰ももってない!
本妻のお雅さんには、こんな粋な贈り物はしていないでしょう。
妻の立場から言うと「むかつくannoy」でしょうが、
おしゃれな高杉晋作が選んで、持たせたい、と思ったのが
おうのさんだったということです。
純粋に「いいよね〜、うらやましいup」です。
このバッグは下関市の東行記念館にあります。


高杉晋作は死期を悟った時に、おうのさんのことを白石正一郎に
頼みます。また、自身も「自分が死んだら墓守をして過ごせ。
そうしたら、伊藤(博文)や井上(馨)たちが祖末にしないから」
と遺言をします。


結果はその通りになりまして、山県有朋が所有していた
「無隣庵(むりんあん)」という建物までもらいました。
吉田のこの地に移築してこれが東行庵とよばれています。


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この庵の中に、仏間があって高杉晋作や歴代の庵主さんたち
(谷梅処、谷梅仙、谷玉仙)のお位牌が据えられています。
以前に、あるご縁で上がらせて頂き、手をあわせた思い出があります。


おうのさんは谷潜蔵という高杉の最後の名前である谷家をおこし、
「谷梅処」となりました。
そして高杉晋作の言った通りに、暮らしていけるだけの費用は、
伊藤、井上、山県らが出してくれました。
高杉の墓守りに対する当然のお手当と、みんな同意したとか。

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無隣庵に住むようになってすぐに、懐かしい墓参客がありました。
晋作とおうのを命がけで救ってくれた、四国の日柳燕石(くさなぎ
えんせき)でした。

高杉に会える望みをもって獄中から生還した燕石は、墓の前で
はばかることなく号泣sweat01
自分たちをかくまった罪で投獄された燕石のことを
「旦那さんは、燕石さんには申し訳ないことをしたと
いつも気にしてました」と梅処尼は告げました。

燕石もこの後、おうのさんを称えた詩を残しているそうです。

   誰かいう 妓娼信義なしと
   初めて知る 婦女心腸有るを

四国で亡命中の高杉と接して、その側に寄り添うおうのさん、
そして身なりもすっかり変わって梅処尼となって高杉を守る
おうのさん、その無心な姿に感じるところがあったのでしょう。

明治42年8月7日、68歳で梅処尼没。

お墓は、「東行墓」がある所ではなく、その下側に
ひっそりと建っています。
ここはやはり、本妻に憚って?
そこがちょっぴり切ないです。


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コメント

稲荷町、壇ノ浦で滅びた平家の女官達が春をひさいだことに始まるという歴史ある遊里だったようですね。
おうのさん、高杉と出会う前のことは何も語っていないので、謎めいてもいます。
このバッグ、雑誌で写真を見たことがありますが、壊れ易いので、中を見ることが出来ないとか。何が入っているのか、それとも空なのか、気になります。
東行庵、以前、一般公開された時に入ったことがあります。
水琴窟が印象に残っています。

投稿: 桃源児 | 2010年11月27日 (土) 09時01分

桃源児さま

コメントありがとうございます。
たしかに、下関の遊女たちは平家の女官たちで、座敷では客より上座に座っていたなどと笑えるような話もあります。

おうのさんについて、出生や堺屋に売られた由来など、
新人物往来社『おうの』松本幸子著に書かれています。よかったらご一読を。

おうのさんは伊藤たちにより無理矢理出家させられたとか諸説ありますが、私は、高杉が彼女の将来を案じて強く言い残したのだろうと思います。そしてまたみんなが愛人の彼女をずっと助けたというのが、いい話じゃないですか!
東行庵は今裁判中で、このバッグとかも展示不可で見られません。私が見た時が最後かな?
中に何が入っているか確かめるべく、早く裁判が決着するように一緒に願ってください。

水琴窟は知りませんでした。ご教示ありがとうございます。

投稿: baisho | 2010年11月28日 (日) 00時35分

私の曾祖母は高杉晋作のお妾さんから、裁縫を習ってたそうです。(母によるとかなりそれを自慢してたそうです。)

曾祖母は豊浦郡でかなり裕福な造り酒屋の一人娘でした。
今となってはもうそれ以上詳しく知るすべもないですが…おうのさんがどういう人で、その後どういう暮らしをしてたか聞けたはずなのに残念です。

投稿: yone | 2015年12月28日 (月) 12時17分

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