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松陰先生月間・その1/玉木文之進さん

10月になりましたね。
食欲だけでなく、読書の秋も楽しんでいます
 
司馬遼太郎先生の名著『世に棲む日々』のその三分の一は
吉田松陰先生のお話でしたね。

今月は松陰先生の祥月命日もあることですし、
先生がらみの記事を書きたいと思います。


その『世に棲む日々』の中で、強烈な存在感を放つ一人が
先生の叔父さんにあたる玉木文之進ですね。
玉木さんは吉田松陰の父、杉百合之助の弟で、杉家から出て
玉木家(大組40石)を継ぎました。


看板の向うにその旧宅の屋根が見えます。


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旧宅が完全に残っているんですよ。築200年くらいだそうですが、
それよりもっとオドロキは数年前まで人が住んでいたそう。

Img_1777


玄関は広々として、あがったところすぐが初代「松下村塾」です。


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ここで松陰先生が学んで、時には半殺しの憂き目にあったところ!


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玉木文之進さんはスパルタ教師でしたが、松陰先生の忍耐力は
その教えの賜物なんでしょう。
玉木さんは有能な藩士でしたが、部下がおこした不始末のために
免職となり、それで自宅で私塾を開いて近所の子供たちを教え
たりしていたそうです。
これが松下村塾のおこりでした。


Img_1778

こちらの常駐ガイドさんが教えてくださったのですが、
玉木文之進さんに教えてもらった人に、乃木希典がいたそうです。
当時、下関からここまで3日をかけて通っていたとか!
やはりモーレツな教育だったらしく、のちに明治の軍神とよばれた
乃木将軍、玉木先生の影響大だったようですね。

玉木文之進旧宅

  萩市椿東 (松本村です)

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コメント

投稿等の連絡いただき有難うございます。でも、パソコン、インターネットの初心者で無知な私でリンクや記事の投稿とはどうすれば良いのか分りません。取り合えずコメントの中に入れておきます。やり方等については教えてください。
さて、第一回目は、高松市に亀阜小学校という小学校があります。この小学校の地は幕末時に松平左近が住んでいた「宮脇亀阜荘」があった所です。この宮脇亀阜荘は全面積が3000坪以上もあったと。この左近は、松平頼該で高松の最後の藩主頼胤の兄である。金岳とも、そして宗藩の水戸斉昭に傾倒し尊王の志厚かった人物である。
「金岳公子小伝」という本があるが、この宮脇亀阜荘では讃岐の勤皇の志士と尊王策を談じた。また、仏間の後ろに1室あって(裏門より出入りできるようになっていた)秘密の間といい普段は閉鎖し出入りを禁じ、鍵は左近の手元に保管していた。志士が来れば応接していた。その中には長州の桂小五郎・土佐の中岡慎太郎等々来たという。もちろん、その中に我らが高杉晋作の名前もちゃんとある。
これは「金岳公子小伝」(しっかりした本)の中のわずか七行の文中より引き出したものです。高杉晋作が松平左近とあったとすれば、慶応元年の丸亀から琴平の燕石に匿われていた期間であろうと思が、私の考えでは、高松ではどうかな?といったところです。でも、亀阜小学校の運動場の片隅には石碑があり、それらしき事を書いているように思います、何しろ石の傷みがひどく殆ど読み取ることができません。
以上今回は、高杉晋作が松平頼該と会談した。かも?という讃岐での話です。

投稿: 讃岐の晋さん | 2011年10月 2日 (日) 15時42分

讃岐の晋様

ありがとうございました。
早速こちらに転送しています。ちょっとご覧になってください。そして、これからはオープンに情報を投稿して頂けますので、こちらのサイトにお願いいたします。

http://www.facebook.com/pages/高杉晋作/122043837900248?ref=notif¬if_t=page_new_likes

投稿: baisho | 2011年10月 2日 (日) 21時38分

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