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高杉晋作を歩く〜博多編その2〜

7月に入り、博多の町は山笠一色になってきました。
福岡の中でも山笠のメインステージである博多地区は商人の町。
ここにも、高杉晋作を匿ってくれたり、援助してくれた
志のある人たちがいました。

高杉晋作が筑前藩の脱藩藩士・中村円太と共に筑前入りしたのは
元治元年の11月4日。
この時、上鰯町(かみいわしまち:旧町名)の対州問屋の
石蔵卯平が迎えたそうです。

今でも石蔵商店として、博多川沿いにお店があるんですよ。

ここに、月形洗蔵が会いに来ます。
そして、肥前田代の平田大江に面会し、九州統合の説得をしに
行こうという話になります。

そして、11月6日、田代に行くのですが失敗。
石蔵屋にもどりますが、ここで謎が・・・

月形、鷹取養巴、平野国臣、早川養敬、そして西郷隆盛に
会ったと記録に残っているそうです。
その前に平尾山荘でも西郷‐高杉会見があったと
記録に残っています。
そしてその後、下関に戻ってからも、稲荷町の大坂屋で
西郷-高杉会談があったと。。。

しかし、『防長回天史』には西郷-高杉は終生面識なし、と
言い切っています。

ここのところはどうなんでしょうね


話を元にもどして

高杉晋作が元治元年、平尾山荘を抜け出て、この博多の町に潜伏したのが
約4日間。 その間の足取りが最近やっとわかってきました。


平尾山荘から少し急ぎ足で歩くと、最初に潜伏した石堂橋あたりの
水茶屋「若松屋」後に「常磐居」まで約2時間の道のり。

全く違うと思うけど、そのあたりに「水茶屋」という
古めかしい喫茶店発見!

Photo_3


それから、その目の前にあるのが関所跡です。
今の石堂大橋あたり。

Photo_4

若松屋で月形洗蔵を待っていた高杉でしたが、待てど暮らせど
現れないのでついに関所破りを決行
変装の名人だった(?)高杉さんは、若松屋の使用人が着る
半纏を着て、5〜6歳の女の子をおぶって、遊郭に用事がある
ふりをして関所を突破したようです。

現在の「大浜公民館」
このあたりが、旧柳町遊郭街(その後移転して新柳町ができた)です。

柳町の「梅が枝屋」というところを根城にしていたようですね。


Photo_9


このあたりの地図はこちらの博多古地図でご覧ください。


結局11月25日に、下関に戻ったと言われています。


この間、筑前藩士たちの動きは目覚ましく、月形、中村、早川などは
功山寺に行き、五卿の九州移転を説得。
諸隊にも説得しますが、彼らはあくまで反対。
「西郷、来るなら来るべし。馬関の海峡は彼が三途の川になるべし」と
いきまいてますから、それはそれは大変な苦労をしていた。
筑前藩士たちのねばりもすごいものです。


高杉晋作といえば・・・
稲荷町に潜伏していました。
そして功山寺決起までのカウントダウンが始まります。


この写真は、下関の稲荷町遊郭跡あたりのサインです。

Photo_13

高杉晋作が逃亡した足跡を辿るのも、またとても興味深い体験でした。


このあたり、もう少し詳しく調べてみたいと思っています

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コメント

こんにちは(*^-^)確かに…高杉さんの逃亡されたあしあとを辿るのも楽しそうですね!それにしても、萩ツアー楽しそう♪紫陽花も綺麗ですし、侍の格好をした女性たちがかっこよすぎです☆またブログの更新を楽しみにしています。

投稿: ゆみ | 2012年7月15日 (日) 18時25分

ゆみ様

 ありがとうございます。お返事遅くなりました。
12月8・9日は下関でイベントを行いますよ。まもなくコチラで御紹介しますので、ご都合があえばぜひご参加くださいね。

投稿: baisho | 2012年7月20日 (金) 21時28分

こちらでは、はじめまして
望東尼の観劇でお世話になった吉本です。
観劇の前に案内していただいた博多の町ここに詳しく書かれていたんですね。
情報が満載のブログですね。
素晴らしいです。
望東尼の足跡について、ここで勉強させてもらってから、あちこち回ればよかったです。

投稿: いとま | 2014年1月13日 (月) 22時30分

福岡市博多区須崎町(元上鰯町)の石蔵商店の石蔵です。

高杉晋作や西郷隆盛と親交があった石蔵卯平の話には大変興味深いです。

今の石蔵商店の場所で生まれ、尊王攘夷の博多商人 卯平をもっと知りたいと思っています。

投稿: 石蔵 利治 | 2018年1月12日 (金) 14時13分

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