『元治元年 十二月 再度の密会
当時、馬関に滞在せし月形潜蔵は小倉に在りける西郷のもとへ我が意を通じ、同志の一人林泰と云ふを使者となし別仕立ての船を仕立て小倉に渡らしめて西郷を迎えしむ。この時長州諸隊の人気非常に荒く薩人にして長州に渡らせんとせば馬関の海峡は三途の川の覚悟にて来るべしなど放言し居りたれば薩藩の兵士らは西郷が馬関の事を危ぶみ「先生にして馬関に渡らるる思し召しなれば我々は何処までもお供をなすべしとて打ち騒ぎしが、隊長黒田吉右衛門、兵士を制し「外ならぬ月形の迎ふることなればさる心配は無用なり、そは我輩に於いて請け合ふべければ鎮まるべし」と諭したるに諸兵も漸く鎮まりける、西郷は吉井幸助、税所長蔵の二人を連れ、林泰と共に船に乗りて馬関に着し、同地の旅店伊勢小(いせこ)に入りたるに月形は早くも此処に居りて西郷らを迎ふ、西郷月形に向ひ「今日は何処にてお集りを催ほさるるにや」と尋ねしに、月形笑みを含み「今日は折角先生のお入り故、これから馬関の女郎買いにご案内申さん」と云ふ、西郷「大方左様の事と存じ若者をも同伴いたしたり」とて打笑ふ、それより月形は西郷の一行を秋月の藩士と偽り稲荷町なる女郎屋大阪屋に案内したるが程なく福岡の志士藤四郎、今中作兵衛、多田荘蔵、中村円太等来会し、五卿方よりは中岡慎太郎、水野渓雲斎の両氏来れり、水野はこの家に来るの途上一枝の寒梅を折り来たりて床に挿みたれば志士が苦節に思ひくらべ時に取りての好品なりと賞美せり、此の席には長州の有志一人も加はらず、高杉等は西郷の一行よりも早く此処に来たり裏座敷に陣取りて酒宴を催し居たり、ややありて月形は西郷を奥の茶室に導き「しばらく此処にお待ち下さるべし」と西郷を残し立ち去りたるが引き違えて一人の武士便所を尋ねる様にて縁側に来たりあたりを忍びて其の室に入りぬ、是れ別人ならず彼の高杉晋作にて両人の間に如何なる談話ありけん知る者絶えて無かりしがその会合は暫時にして西郷再び表座敷に帰り来たるに福岡の志士らは早や酒宴を始め芸者なども来たりて飲めや歌への大騒ぎなり、こは月形の計らひにて彼の茶室の密談を知らざらしめんとの計略なりける、此の時裏座敷の一座も大いに酔ひしと見へ芋掘り武士、長州武士の魂を見よなどと薩州を罵る声声聞こえしが、やがて表座敷の襖を破るるばかりに打ち明け、高杉晋作を始めとして太田市之進 佐世三十郎等長州屈指の壮士十余人大酔の体にて西郷の座敷に踏み込みたり、高杉は西郷の前に進みて声を励まし「貴様が薩州の芋掘武士か」と罵るに西郷平然として「如何にも拙者は芋掘武士でござる」と立腹の様子もなし、高杉なおも口を極めて西郷を罵りしが一座の人々はかねて高杉の酒癖あるを知るものから又例の癖が起こりたりとて種々高杉を宥めんとせしに、高杉いよいよ激しく西郷を罵倒し散々に放言したる末席を蹴立てて立ち去りたり、続いて太田佐世の面々も「こんな所に居るのは汚らわしい」と立ち去りぬ、是れ高杉の狂言にして長州の壮士に己と西郷との関係を知らざらしめん為なりき、酒宴終わり西郷は吉野税所の両士と共に茶室に退きたるに月形早川の両士入り来たり高杉と会合の模様を尋ねしかば、西郷は此の夜の会合にて五卿動座の事も運びし故早々廣島に赴き解兵の事を取計ふべし、と鶏鳴の頃以前の迎え船に乗りて再び小倉に帰れり』
この文章に書いてある通りの船宿「伊勢小」の跡を実際に見て、堂崎渡(どうざきのわたし)という船着き場の図を見たりして、すごくリアルに感じました。
酔った勢いで西郷を罵倒し、それも一人で行ったのではなく壮士十余人という、皆の前で事実を見せる。西郷も心得たものでここは長州に一歩譲るという気持ちで聞き流す。すんなりと薩長同盟ができるわけない、両雄二人の歴史的逢瀬はこのようなカタチであったということがすんなり入ってきました。
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