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友人・前原一誠のこと

 先日、高杉晋作の手紙を色々と調べていたとき、

桂さん宛で

「佐世八十郎(後の前原一誠)を救いたい」というものを発見しました。

そのきっかけで、前原一誠について知りたくなったので、色々と
調べてみました。今回はそのお話です。
この時期の長州藩は、正月からの改革派と俗論派の「大田・絵堂の
戦い」が終わり、高杉たちの勝利により藩論を「倒幕」とし、政治が
めまぐるしく変わっている頃でした。藩政府に出ていた士族の佐世は、
旧俗論派と改革派の板挟みになり、ややノイローゼ気味でした。
慶応元年9月25日に書かれた、その手紙の肝心な部分ですが・・・
「結局を附けさせらずては、中々一統し居らざる様愚按まかりあり
候。佐世も当分は弟(自分のこと)と同居の覚悟に存知候間、御安
心下さるべく候。帰山論もござあるべく候えども、来原の跡を踏み
ては相済まず候間、弟へ当分預け下され候よう希い奉り候。
もし、弟に関地事おおせつけられ候ようなれば、佐世同勤に仰せつ
けられ候えば、千万ありがたく存じ奉り候」
藩政府の中で苦しんでいる佐世を見て、下関の自分のところで預か
りたいと願いでている手紙です。来原良蔵がかつて長井雅楽の航海
遠略策に賛同したと批判され、自刃したことを引き合いに出して、
思い詰めた佐世が同じことになるのを心配しているのです。
この要望は聞き入れられ、佐世は2週間ばかり高杉と共に下関に滞
在し、なんとか気も晴れたようで萩の政府に戻っていきました。
前原一誠、こんな人
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松下村塾のメンバーの写真に入っているものの、「萩の乱」の
首謀者ということで、ほとんどスポットライトが当たることの
ない人。前原一誠。
しかし、松陰先生は彼をこう評しています。
「その才は久坂に及ばない、その識は高杉に及ばない。
けれども、人物完全なることは両名もまた佐世に及ばない。」 
「勇あり、智あり、誠実人に過ぐる」と。
松陰先生のもとで学んだのはわずか10日間。松陰先生に
感動した佐世は、その教えを心に刻みました。
それは、「仁政」。 人に対して優しい政治。
後に佐世は、全身全霊を傾けそれを実行しようとします。
松陰先生は、自分の志を継ぐ人があれば、死などとるに
足らないと言い、その志を継いだのが、佐世でした。
「至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり」から
とった名前、26歳の時に前原一誠と改名します。
彼は士族の出身なので、高杉はここ一発の時に、やはり頼りに
していたようです。前原も年齢は5歳年上でしたが、高杉には
大いに惹かれるところがあったようで、功山寺決起の時に
は、単騎で一番に駆けつけているのです。
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あの夜、前原一誠は、こんな詩を詠んでいます。
「子十二月十六日、国賊某を新地に襲う馬上の作」と
いうことで、高杉ファンならどこかで読んだことのある
この詩ですsign01 (最初の文は略します)
 
 凛冽の寒風、面まさに裂けんとす
 馬蹄 踏み破る満街の氷
この決起の前に行われた徹夜の軍議にも参加していました。
馬に乗って、石川小五郎よりも伊藤俊輔よりもいち早く功山
寺に駆けつけ、行動を共にします。そこから生まれた詩である
ことは間違いありません。これ、ほとんど知られていないところ
なんですね〜gawk
そもそも、一誠は山口に落ちて来た七卿の用掛もしています。
その時に知遇を得た三条実美や壬生基修らは、彼の後半の
人生におおいに関わっていくことになりました。
さて、小倉戦争では参謀心得として参戦、高杉が第一線を退いた
後には、高杉の替わりとして参謀を務めました。(ここ、大事。)
諸隊の中でも、武士の一団である「干城隊」の総督を務め、明治
元年の戊辰戦争では会津征討越後口参謀に任じられ、長岡城攻略
などに戦功をあげます。この功績によって一誠は、明治2年に越後
府判事(今の新潟県知事)となります。ここで、貧しい農民たちを
見て年貢半減などの政策、また頻繁に氾濫する信濃川分水工事を計
画するなど、大胆な仁政を行おうとするのでした。しかし、信濃川
の工事については新政府の了解を得ることができません。そんなと
ころに莫大な費用をかける、という余裕が明治新政府にはなかった
からです。
ここから、次第に木戸や大久保などから離反していきます。
その後も大村益次郎の後を継いで兵部大輔(ひょうぶだいふ)に
任じられたりもします。しかし、もともと身体が丈夫でなかった上に、
新政府の方針と合わない。三条実美や最後は岩倉具視までが出てきて、
一誠を説得しますが、最後は萩に引きこもってしまいました。
何とか中央政府に出てくる事を要請されるのですが、「病にて」を
理由に頑として出ていきません。
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写真がちゃんとした位置に納まりませんwww 
一誠さん、やはり、この姿を見られたくないようですねbearing
ちょっと笑えるのを、一誠さんも感じてるのかな〜? 
なんか最初の面構えとは待ったく違って借りてきた衣裳
みたいで、全然似合ってないです〜weep
参議となって、天皇のお側に仕えるための直衣直垂というこの姿、
自分が望んでなった地位ではない。むしろ拒んで拒んで容れられず
降ってわいた災難だと言ってます。なのに、彼の成功を妬む人たち
からは悪口も言われる・・・なにもかもいやになって、萩に戻り
晴耕雨読の生涯をおくりたいと願う。
しかし、時代が一誠をそうはさせなかったのでした。
政府高官までなった一誠が萩に帰れば、地元の不平士族たちをかな
り刺激する。そう思った政府の面々は、なんとか東京に引き止め
ようとするわけです。
井上馨を弾劾しようとした江藤新平が失脚し、明治7年に佐賀の乱が
おきる。それに連なって明治9年に秋月の乱、神風連の乱、そして
萩に帰った一誠を待ち受けて、不平士族たちが集結し、ついに萩の乱
がおこるのです。時代の大きなうねりに一誠といえども抗することが
できませんでした。
かつての同志たちが、元勲になって豪華な邸宅に住み、贅沢な暮らしを
しているのを見て、我慢がならなかった一誠。
「こんなことのために、自分たちは命をかけて戦ってきたのか!」
廃藩置県、廃刀令が布かれ武士の多くが困窮してしまった時代、それを
見捨てる訳にはいかないのが一誠でした。そして萩の乱では、彼の父や
弟、また松陰の叔父・玉木文之進やその弟子たちも巻き込んで激闘が
行われます。彼等は、「武士の誇り」をもって戦った長州藩最後の武士
たちでした。
 
萩の乱はわずか3日間で鎮圧されてしまいますが、最後の最後まで
諦めない一誠は、天皇に旧士族の現状を奏上し「仁政」を実現して
ほしいと直訴するために、漁船で東京に向います。しかし、嵐を避け
ようと立ち寄った、島根の宇龍港付近で逮捕されます。そして、萩に
連れ戻され処刑されてしまいました。明治9年12月3日、享年43才。
一誠の墓は、萩市土原の弘法寺。 死後、恩赦で贈従四位。維新の
十傑の一人と数えられます。
 
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今年は前原一誠生誕180年の年にあたるそうです。
そこで、萩市松陰神社にある至誠館では、特別展が予定されています。
cute前原一誠生誕百八十年記念展
 「松陰先生と前原一誠」-誠実・寡黙な志士-
 ・会期:平成26年3月21日(金)から5月26日(月)まで
 
そして、萩と下関を訪ねるツアーを行います。
この特別展もコースに入っていますので、よかったら、こちらで
詳細をご覧下さい。桜満開の春の長州路にぜひご一緒しましょう。
 

Photo
 
 

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前原一誠」カテゴリの記事

コメント

詳しい解説ありがとうございます。
西郷さんと似た心境であったのだろうと了解しました。
しかし依然として長州における前原の位置関係が理解できません。
桂や井上や伊藤が、前原をどう見ていたのか?
教えて頂ければ、幸いです(笑)

投稿: Mira4.5 | 2015年1月24日 (土) 11時07分

前原を担いだ松下村塾の人たちや、それに加担した人たち、藩内で俗論か正論化で何十年も過ごして明治になってからは、中央政府を軽くみていたのでは。兵器と戦略で圧倒的に弱かったのは新しい通信や萩の地形に関して認識不足だったのでしょうか。その見通しの甘さについては謎がおおいですよね。中途半端さが残念すぎます。

投稿: Agnes | 2015年1月24日 (土) 11時27分

Mira4.5さま

 メッセージありがとうございます。
長州における前原の位置とは、幕末から明治にかけての話でしょうか。
もともと士分でない人たちが台頭し、出世などに全く興味がなかった前原としては、周りを苦々しく見ていたのでしょう。当然それは相手にも伝わりますよね。古武士の風情だった前原が、新政府の中で浮いてしまったのは仕方ないことでしょう。
ある本に、「志士と元勲は全く別人です」とありました。木戸や井上、伊藤という人たちは時代とともに変わっていった。彼らが前原をどう見ていたか・・・すでに仲間ではなく、不穏分子となっていたのでしょうね。

投稿: | 2015年1月26日 (月) 23時58分

Agnesさま

 メッセージ、ありがとうございました。
「前原の見通しが甘かった」、その通りだと思います。幕末の戦乱からも時がたち、いろんなすれ違いも起きるなかで、殉国軍として決起したのはすでに遅かったのです。
このあたりのお話は、諸井條次著『萩の乱と長州士族の維新』に書かれています。私も勉強中。
また新たな知識を得てから改めて書いてみますね。

投稿: | 2015年1月27日 (火) 00時06分

大の長州嫌いで井上なんぞは国の金との区別も出来ず
俺は国賊と思っている

そんな輩のなかで武士としての情けをもっている
前原さんみたいな男は腐敗した政府のやつ等には邪魔だったのでは

しかし彼の人間性には長州に怨み骨髄の会津藩士さえも
行動を共にして死んでいった
それが何よりの勲章ではないでしょうか

投稿: だいもん | 2015年5月 5日 (火) 12時49分

逆賊、長州の中で、数少ない本物の武士。前原一誠。是非、薩摩に一度来て欲しかった。長州にも、このような人物がいたのは、救いですね。薩摩にも、逆賊、大久保、川路がいるように。

投稿: 薩摩若武者 | 2015年10月28日 (水) 08時19分

明治国家乗っ取り。将軍、天皇、皇子暗殺、御所に大砲を撃ち、天皇、公家に憎まれ、征討令で将軍家、全国の大名に狙われ、七卿落としで冠位を奪われ、異国に発砲し四ヵ国に上陸され、藩内で高杉のクーデターが起き、氏族も半数になり、金もなく、八方塞がりで、国家乗っ取りを果たした。隠さなければならない闇が有りすぎ、現在に至るまで、総理と宮内庁を独占して、隠し続けても、必ず、歴史、真実は暴かれる。正直者の薩摩排除計画が、佐賀から始まり、神風蓮、秋月、萩。そして、薩摩が目標。千年、五百年の長州の念願の朝鮮統治の為に、邪魔者を排除し、明治11年以降を山縣、伊藤で独裁し、戦闘国家に導き、国家の行く末をねじ曲げた長州に必ず天罰、天誅がある。ただし、長州にも、前原一誠や高杉のような人物がいたのは、評価する。

投稿: 薩摩若武者 | 2015年10月28日 (水) 08時42分

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