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2014年11月

高杉晋作 元治元年11月11日筑前・平尾山荘に入る

久しぶりにブログを書きます。

今年は元治元年から150年。高杉さんが福岡に亡命したこと、それから下関に戻って12月に功山寺決起を果たしたこと。このトピックスだけはブログに記しておこうと思っています。
福岡縣藩士と名乗る江島茂逸という人が書いた『高杉晋作伝入筑始末完』という本があります。明治になって、筑前の勤王の人たちのことを書き留めておこうという江島氏の思いが込められた作品です。
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この中で、高杉が筑前(福岡)に入り馬関(下関)に帰るまでの動向が詳細に書かれています。すべて本当かどうか、真偽のほどはわかりませんが、他の書籍の記録などと照合しながら、妥当だと思われることを書いてみたいと思います。
元治元年10月26日、高杉は楢崎弥八郎、小田村伊之助を訪れて、「共に九州に脱走しよう」と持ちかけますが、二人は同意せず。山県や野村和作等も高杉を引き留めますが、九州連合で蜂起、ということで頭がいっぱいの高杉は、聞く耳をもちません。馬関の白石正一郎のところに向かい、そこから九州へと逃亡を図ります。
その時、筑前の脱藩藩士・中村円太は馬関細江町の桶久という旅館に滞在して、筑前渡航の準備をしていました。
いよいよ11月2日、中村円太と大庭伝七の3人で、白石邸からそのまま玄界灘方面に出て、筑前へ向います。途中、黒崎あたりで停泊を余儀なくされ、4日になって
博多の上鰯町(今の須崎町あたり)の対州問屋・石蔵屋卯平の屋敷に一行は到着
するのです。
今も、那珂川沿いにある、石蔵さんというお店です。白石正一郎邸みたいですね。
川から上がれるようになっています。
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この石蔵屋で、筑前勤王党のリーダー、月形洗蔵に初めて出会います。月形は、このあと長州にかけがえのない功績を残す人です。高杉の盟友ともなります。
この時、月形から「肥前田代の代官、平田大江を訪ねるといい。彼は九州の結束力でもって尊王の旗揚げをしようとしている。」と聞くのです。
九州に落ちて来た高杉にとって、対馬藩の飛び地である田代は安全な場所であったし、何よりも九州統合という一縷の望みが彼のすべてでした。
ちなみに、幕末の対馬宗家には、萩・毛利家から姫が嫁いでいましたので、長州と対馬は親戚だったのです。
11月6日、田代(現在の佐賀県鳥栖市)に向います。
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しかし、結果は失敗。統合できるどころか、九州諸藩は全くまとまっておらず、失意のうちに高杉は博多に戻ってきます。しかし、幕吏や筑前藩の追っ手の目が光っている中で、どこに潜伏したらいいのかさえわかりません。そんな八方塞がりの高杉に中村円太が言います。「平尾の野村望東尼様のところであれば・・・」
円太は月形に相談。当時、平野国臣、月形洗蔵、鷹取養巴など勤王の志士たちのアジトとなっていた平尾山荘。早速、月形は望東尼にその旨を願います。
こうして、高杉晋作と野村望東尼の不思議な縁が結ばれるのでした。
元治元年11月11日深夜、谷梅之助という変名になった高杉は、平尾山荘を訪れます。旧暦ですので、今で言うと12月の始め頃だったかもしれません。寒い夜でした。
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失意の中にあって暗い瞳をしていた高杉に、歌人であった望東尼は歌を贈って勇気づけます。
 「冬深き雪のうちなる梅の花 埋もれながらも香やはかくるる」
 (雪に埋もれた梅の花であっても、その香りまでは隠れることはない。
  元気を出して、また時がくるのを待ちなさい)
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谷梅之助は25歳、望東尼は59歳。
梅之助は潜伏中なので、外出もできず何もすることがない。
その中で、吉田松陰先生の話、上海渡航や攘夷戦争、また自身の考えを「尊王攘夷」から「開国倒幕」に変えたことなど、いろんな話をしたことでしょう。
また和歌のやりとりもたくさん行ったと思われます。
そんな穏やかな日々の中で、高杉が次第に冷静さを取り戻していったのです。
夜になると、月形や鷹取など、志士たちが集まっていろんな情報をもってきます。ある日、一旦長州に戻った中村円太が山荘に不穏な話を告げに来ます。
幕府の征長軍が回避されたものの、その詫びとして「蛤御門の変を指揮した長州の三家老の首を幕府に差し出した。その他に山口城の破却、長州藩父子の自筆の詫び状。長州に亡命中の五卿の他藩への移転」が条件だというのです。
「そんなことをして幕府に完全に恭順すれば、長州は滅びるimpact」と危機感を抱いた高杉は、命を顧みず長州に戻ることを決意します。
望東尼は、三人の家老の訃報に落ち込む高杉に対して、このような歌を贈ります。
 「山口の花ちりぬとも 谷の梅開く春べを堪えてまたなむ」
そして、いつか帰るであろう高杉に対して、徹夜しながら縫い上げた旅衣を贈るのです。それは亡くなったご主人の反物でしたが、仕立てることができずに置いておいたものでした。
 
 「まごころをつくしのきぬは国のため たちかへるべき衣手にせよ」
 「惜しからぬ命をかかれ桜花 雲井にさかん春そまつべき」
無事に長州に戻れるよう、変装のための町人風の着物でした。下関の日和山の晋作の銅像は、その襦袢、袷、羽織を着た姿と言われています。
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高杉はその着物をおし戴いて、涙をこぼしながら何度もその歌を繰り返したそうです。そして、懐から懐紙を取り出し、お礼の漢詩を書きました。
 
  自愧知君容我狂   自ら愧(は)ず君が我が狂を容るるを知る
  山荘留我更多情   山荘我を留めて更に多情
  浮沈十年杞憂志   浮沈み十年杞憂の志
  不若閑雲野鶴清   若かず閑雲野鶴の清
 
   尋常ならぬ私のような者を山荘に匿い
   厚情を頂いたことに恥じ入るばかりです
   十年の浮沈みを重ねてなお甲斐のない私の志など
   雲間をのどかに翔ぶ鶴のような
   清々しい貴女には及びもつきません
高杉は、望東尼に深く謝して、11月21日に平尾山荘を後にします。
その後柳町遊郭で潜伏したり、宗像の早川勇を訪ねたりしながら、筑前の人たちの援助の軍資金をもらって、25日には馬関に帰ります。
望東尼のもとへ、高杉からお礼の手紙が届きます。
  拝し参らせ候
  先日己来、御厄害に相成り候
  千万恐れ入り奉り候
  いずれ又の御世にて
  御礼縷術致すべく候
  御歌数々拝し奉り候
  御老体御身、朝夕御保護専要に存知参らせ候
                   かしこ
    十一月二十七日朝 
  望東君            東行拝
「色々お世話になりました、二度と生きては会えないだろうから、あの世で会って礼を言いたい」という手紙でしたweep  
その後、死ぬ気で挑んだ回天義挙、功山寺決起がうまくいって、高杉軍はついに俗論派を斥けたという噂が福岡にも伝わってきます。
 
 〜谷の梅という人、国の仇をたひらげたりとききて〜
  「谷深み含みし梅の咲きいづる 風のたよりもかぐはしきかな」
望東尼の喜びが、とても伝わってきますね。
しかし、時代は急変を告げようとしていました。
高杉の決起の成功により、長州は「倒幕藩」となってしまいました。
今まで、和平工作のために長州と幕府の間の周旋をしていた福岡藩主は、そのことに驚愕します。それはあってはならないことでした。左幕の立場の福岡藩主と、月形ら勤王の志士たちはここで大きく決裂したのでした。
世にいう慶応元年9月「乙丑(いっちゅう)の獄」 家老の加藤司書を始め、筑前勤王党はすべて粛清されてしまいました。11月15日には、望東尼も志士たちを匿ったり助けたりしたという理由で、「姫島に流刑」とされてしまいます。
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姫島は福岡・糸島沖合い4kmの小さな島。幕末には筑前の流刑の島でした。
今も、復元されて残る「望東尼の獄舎」
ここで、詠んだ歌
 「うき雲のかかるもよしやもののふの やまと心のかずに入りなば」
   私にも暗雲がかかってきた。それならそれでよしとしよう
   志ある武士の数に自分も入るならば
 なんという覚悟でしょうか! 勤王の女流歌人などと生易しいものではありません。まさに、勤王の志士であった野村望東尼でした。
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この風雨にさらされる獄舎で年を越し、約1年という月日を気丈に過ごします。
本人は、「死ぬまでここに置き去りにされる」という恐怖心があったと思いますが、島の人たちが差し入れをしてくれたり話相手になってくれたりして、和歌の創作を拠り所として生きていくのでした。
さて年明けの慶応2年といえば、6月に第2次長州征伐が始まり、高杉晋作は小倉戦争の海軍総督として采配をふるう、幕長戦争のまっただ中にいました。
同時に肺病を患い、小倉戦争を指揮するにも寝たり起きたりするような重篤な事態です。そんな中、福岡の脱藩藩士・藤四郎から望東尼が流刑にあっていることを聞きます。それを知った高杉は、救出作戦を発案し、自分は前線を離れるわけにはいかないので、救出チームを仕立てます。
救出部隊は6人
  筑前藩士 藤四郎、小藤四郎
  長州藩士 泉美津蔵
  対馬藩士 多田荘蔵、吉野応四郎
  博多商人 権藤幸助
6人が佐賀県唐津の浜崎を目指して、白石邸から三反帆の船で向かいました。
浜崎に1週間くらい滞在して、対岸の姫島の様子を探り、綿密な計画のもとに
「島抜け」が実施されたのです。
それは、慶応2年9月15日のことでした。
姫島から一旦、もうひとつの流刑地宗像沖の大島に寄り、そして玄界灘をそのまま進んで、馬関の白石邸に到着します。
生きて再会できると思わなかった高杉と望東尼。でも、高杉に残された時間は多くなかったのです。
やがて、小倉戦争の終決を見る前に、高杉は前線をはずれ闘病生活に入ります。
萩から来たマサ夫人とともに、望東尼は死ぬまで高杉の面倒をみます。
みんなの切なる願いも届かず、慶応3年4月14日、高杉晋作享年29歳で亡くなります。島抜けをして長州に来たために、福岡では大変な騒動になっており、望東尼は帰ることも親族に手紙を出す事もできません。そんな彼女の唯一の心の支えであった高杉が亡くなって、望東尼の嘆きようは他の人以上であったようです。
 
「奥津城(墓)のもとに我が身は留まれど 別れしいぬる君をしぞ思ふ」
高杉のお棺の中に入れてほしいと願って、短冊に書かれた和歌でした。
高杉亡きあと、望東尼は防府に移ります。そこで、長州藩主から「高杉が世話になった」という謝意を受け、二人扶持という食べることには困らない生活を約束されます。しかし、自分は筑前藩の者、他藩の恩恵を受けるのは心苦しいと語っていたそうです。彼女は高杉の後を追うように、同じ年の慶応3年11月6日にその生涯を終えます。
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山口県防府市の大楽寺に望東尼のお墓はあります。
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墓石の裏面に望東尼の生涯が記載されているのですが、それを書いた人が、まさに楫取 素彦でした。来年の大河ドラマ「花燃ゆ」のまさに文さんの2番目のご主人ということで、準主役ですね。望東尼も出演するらしいという噂ですが、ドラマの中でどのように描かれるのか、本当に楽しみです。

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