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2015年9月

前原一誠旧宅跡 目出村(小野田市)

以前から行きたかった、小野田市にある前原一誠旧宅跡。
ここは、17歳から23歳までの7年間、佐世八十郎(前原一誠)が過ごしたところです。昔は目出村といっていましたが、現在の住所は小野田市旦西(だんにし)。
細かい住所がわからないので、ナビで探しながらなんとか到着。しかし碑はあるものの、肝心のお家は全く見当たらず・・・
 
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実はこの碑がある上のほうが、佐世邸の跡だったようです。
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こんな不思議な塀に沿ってあがっていくと、一軒のお家があります。
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ここにお住まいなのは伊藤さんという方ですが、お話を伺うことができました。
(ちなみにこちらの方は前原さんのご子孫とかではありません。)
なんでも、伊藤さんのご主人のお父様が、佐世邸を買って住まわれたそうですが、台風やら老朽化で手入れが必要になり、今はすっかり新しいお家に変わってしまいました。
しかし、昔のまま残っているものがあるのです。
それは、井戸! 敷地の横にある竹林に埋もれてしまっていますが、間違いなく佐世家の頃から使われていたもの。
竹の間に、なんとなく見えるでしょうか
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それと、古い地元の新聞にも紹介されていた「柿の木」です。
写真がどうしても反転しなくて、申し訳ありません。
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ほとんど枯れかかっている老木なのですが、不思議と毎年新芽が出てくるそうです。もちろん実もなりませんが、150年以上たって、いまでも生きている。
昔、武士の家では必ず柿の木を植えた、と聞いたことがあります。
渋柿です。もちろん、保存食となるから・・・
前原さんも、きっとこの干し柿を食べたことでしょう。
しかし、今のお宅では邪魔だからと一度は切られたりもしました。そんな状況で、まだ残っていて、今回出会えたことは感動です。
現在の伊藤家は、88歳になるという奥様がお一人で住んでいらっしゃいます。
私が訪ねた時に、ご親切にいろんな資料を見せてくださいました。
その中で、これ!
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なんと、佐世邸の間取りです。ご主人のお父様が住んでいらっしゃったので、忘れないうちに、と書き残してくださったようです。有り難い〜。
そして、小高いこのお家から素敵な塀に沿って下の方に降りて行くと、
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なんと! 佐世家が使っていた登り窯です。
昔ながらの窯の跡、すごいものが残っている。驚きました。
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伊藤さんのお家の塀も、実はここで焼かれた陶器を使ったものだそうです。
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佐世八十郎は、萩から目出に戻る途中に馬から落馬して大けがをし、それが後年にまで障害となって残るわけですが、特にここで家業の製陶などをしていた時が、一番不遇な時期だったようです。
「今の自分は井の中の蛙のようなものだ。心が乱れて仕方がない。粗末な家の中で何もできない自分に対して苛立ち、悲しみ、胸が張り裂けそうな毎日だ」
唯一花瓶の中の花を見る事で心を慰めている、と日記に記しています。
しかし、時は佐世を見捨ててはいませんでした。
父・彦七が藩主の駕篭廻りの段取役で、駕篭奉行役を命じられ、八十郎も父に付いて萩に帰り、松下村塾に入ることになったのでした。
24歳でやっと生涯の師・松陰先生に出会い、それからは時代の変化の中で生き抜いていきます。
「八十は勇あり、智あり 誠実人に過ぐ
 所謂布帛栗米なり
 適くとして用ひられざるはなし
 その才は実甫に及ばず
 その識は暢夫に及ばず
 しかれども其の人物の完全なる
 二子も亦八十に及ばざること遠し
 吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し
 八十父母に事へて(つかえて)極めて孝
 余未だ責むるに国事を以てすべからざるなり」
松陰先生の言葉です。
そして、八十郎は先生の「至誠」を一番純粋に受け継ぎ、名前の「一誠」もそこからとりました。
その後は、以前書いたブログの中に紹介しています。
前原一誠が亡くなってから、すでに150年近くたっています。
彼の復権はぜひにと、願いたいものです。

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