2018年博多祇園山笠の飾り山に!
博多祇園山笠の季節です。
本番7月14日を前に、市内14箇所で飾り山や舁き山が見られます。
元々、疫病で苦しんだ博多の人たちが、災い封じとして始めたお祭りです。戦国時代が終わって焼け野原になった博多の街を復興した、太閤秀吉に感謝して、飾り山の題材は「太閤秀吉」、また黒田52万石を与えた幕府をリスペクトして「関ヶ原の合戦」など、そういう戦国時代ものがメインです。
ところが、今年のラインナップに「おぉ!」と思うものがありました。
千代流れの飾り山です。
ここに書いてあるのは、「維新回天 石堂橋」
維新はともかく「回天」とは、どこかで聞いたような・・・
そして、石堂橋という地でのエピソードとは?
早速出かけてみるのでした。
場所は、福岡市博多区千代の地下鉄・県庁口のところです。
あぁ〜!やっぱり! すごい

もう興奮です。
まさに、高杉晋作と野村望東尼ではないですか!
幕末!しかも高杉晋作をメインにしたこのテーマ

長い祇園山笠の歴史の中でも、初? なのではないでしょうか

今年は、「維新150年」ということで、制作に至ったようです。
二番山笠 千代流
飾山 見送り 『維新回天 石堂橋』
今年は維新から百五十年となります。
幕末・元治元年、馬関戦争のあと、四カ国講和の長州方の代表だった高杉晋作は、幕府側と過激攘夷派から命を狙われることになります。そのため高杉は福岡藩の勤皇志士の勧めで福岡城下に逃れました。上鰯町(今の須崎町)にある、回船問屋の石蔵卯平宅に匿われました。ここで、筑前の月形洗蔵や早川勇という人たちと出会います。
その後、平尾山荘の野村望東尼に匿ってもらいます。
平尾山荘にいたのはわずか10日間。そして、平尾を出て、今の呉服町あたりに潜伏先を変えます。
今の千代町にあった水茶屋に潜伏し、このとき博多へ入る為に石堂橋の関所を通らなければならなかった高杉は一計を案じます。
そこで遊んだ商家の若旦那を装い、幼女をおぶって、幼女の袖で顔を隠して関所を通過したのです。
お人形はこんな人たちが配置されています。
まず晋作さん!
芸妓をおぶって関所破りをして石堂橋を渡ったと解説してあります。
これはちょっと違うので、後でまた。
お次は、なんとも若々しく色っぽい望東尼様

平尾山荘も、歌舞伎の舞台みたいです。
この高杉晋作、筑前潜伏の物語は、元治元年(1864)11月のことです。
元福岡藩士の江島茂逸という人が書き残した、『高杉晋作傳入筑始末』という本があります。
それによると、晋作は11月10日から21日まで、平尾山荘に潜伏。
その後、石堂橋の新茶屋「若松屋」に入る。ここで、月形洗蔵を待つが、彼は来なかった。五卿の太宰府移転などの問題で手間取り、なかなか忙しかったのである。
そこで、山荘で高杉の身の回りの世話をしてくれた瀬口三兵衛が、若松屋の提灯を持ち、高杉は若松屋の半纏(はんてん)を着て、5〜6歳の幼女をおぶって柳町遊郭に行く。
とあります。
なので、「芸妓をおぶって」という説明、が惜しい!
これは、遊郭があった柳町あたりの古写真です。
なので、「芸妓をおぶって」という説明、が惜しい!
これは、遊郭があった柳町あたりの古写真です。
晋作は、このあと宗像の早川勇を訪ねたりして、11月25日に下関に戻ります。
晋作が博多にいたのは約20日間ですが、筑前藩士や博多商人たちに守られ、餞別や軍資金までもらって、帰るのです。
博多ですっかりリフレッシュした後に、功山寺決起へ向かいます。
彼の輝かしい偉業の陰には、こうした筑前の人たちがいたことを知ってください。
維新150年の今年、こうして博多祇園山笠の飾り山のテーマになる
なんと素晴らしいことでしょう!

なんと素晴らしいことでしょう!
高杉晋作と野村望東尼の物語を取り上げてくださって、千代流さんには深く深〜く、感謝申し上げます。
千代流の飾り山は、博多人形師の川崎修一さんの作品です。
15日には山解きといって解体されるので、ぜひとも本物を見てほしいと思います。
場所は、福岡市博多区千代 地下鉄「千代県庁口」を降りてすぐです。
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