福岡・平尾山荘

高杉晋作 元治元年11月11日筑前・平尾山荘に入る

久しぶりにブログを書きます。

今年は元治元年から150年。高杉さんが福岡に亡命したこと、それから下関に戻って12月に功山寺決起を果たしたこと。このトピックスだけはブログに記しておこうと思っています。
福岡縣藩士と名乗る江島茂逸という人が書いた『高杉晋作伝入筑始末完』という本があります。明治になって、筑前の勤王の人たちのことを書き留めておこうという江島氏の思いが込められた作品です。
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この中で、高杉が筑前(福岡)に入り馬関(下関)に帰るまでの動向が詳細に書かれています。すべて本当かどうか、真偽のほどはわかりませんが、他の書籍の記録などと照合しながら、妥当だと思われることを書いてみたいと思います。
元治元年10月26日、高杉は楢崎弥八郎、小田村伊之助を訪れて、「共に九州に脱走しよう」と持ちかけますが、二人は同意せず。山県や野村和作等も高杉を引き留めますが、九州連合で蜂起、ということで頭がいっぱいの高杉は、聞く耳をもちません。馬関の白石正一郎のところに向かい、そこから九州へと逃亡を図ります。
その時、筑前の脱藩藩士・中村円太は馬関細江町の桶久という旅館に滞在して、筑前渡航の準備をしていました。
いよいよ11月2日、中村円太と大庭伝七の3人で、白石邸からそのまま玄界灘方面に出て、筑前へ向います。途中、黒崎あたりで停泊を余儀なくされ、4日になって
博多の上鰯町(今の須崎町あたり)の対州問屋・石蔵屋卯平の屋敷に一行は到着
するのです。
今も、那珂川沿いにある、石蔵さんというお店です。白石正一郎邸みたいですね。
川から上がれるようになっています。
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この石蔵屋で、筑前勤王党のリーダー、月形洗蔵に初めて出会います。月形は、このあと長州にかけがえのない功績を残す人です。高杉の盟友ともなります。
この時、月形から「肥前田代の代官、平田大江を訪ねるといい。彼は九州の結束力でもって尊王の旗揚げをしようとしている。」と聞くのです。
九州に落ちて来た高杉にとって、対馬藩の飛び地である田代は安全な場所であったし、何よりも九州統合という一縷の望みが彼のすべてでした。
ちなみに、幕末の対馬宗家には、萩・毛利家から姫が嫁いでいましたので、長州と対馬は親戚だったのです。
11月6日、田代(現在の佐賀県鳥栖市)に向います。
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しかし、結果は失敗。統合できるどころか、九州諸藩は全くまとまっておらず、失意のうちに高杉は博多に戻ってきます。しかし、幕吏や筑前藩の追っ手の目が光っている中で、どこに潜伏したらいいのかさえわかりません。そんな八方塞がりの高杉に中村円太が言います。「平尾の野村望東尼様のところであれば・・・」
円太は月形に相談。当時、平野国臣、月形洗蔵、鷹取養巴など勤王の志士たちのアジトとなっていた平尾山荘。早速、月形は望東尼にその旨を願います。
こうして、高杉晋作と野村望東尼の不思議な縁が結ばれるのでした。
元治元年11月11日深夜、谷梅之助という変名になった高杉は、平尾山荘を訪れます。旧暦ですので、今で言うと12月の始め頃だったかもしれません。寒い夜でした。
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失意の中にあって暗い瞳をしていた高杉に、歌人であった望東尼は歌を贈って勇気づけます。
 「冬深き雪のうちなる梅の花 埋もれながらも香やはかくるる」
 (雪に埋もれた梅の花であっても、その香りまでは隠れることはない。
  元気を出して、また時がくるのを待ちなさい)
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谷梅之助は25歳、望東尼は59歳。
梅之助は潜伏中なので、外出もできず何もすることがない。
その中で、吉田松陰先生の話、上海渡航や攘夷戦争、また自身の考えを「尊王攘夷」から「開国倒幕」に変えたことなど、いろんな話をしたことでしょう。
また和歌のやりとりもたくさん行ったと思われます。
そんな穏やかな日々の中で、高杉が次第に冷静さを取り戻していったのです。
夜になると、月形や鷹取など、志士たちが集まっていろんな情報をもってきます。ある日、一旦長州に戻った中村円太が山荘に不穏な話を告げに来ます。
幕府の征長軍が回避されたものの、その詫びとして「蛤御門の変を指揮した長州の三家老の首を幕府に差し出した。その他に山口城の破却、長州藩父子の自筆の詫び状。長州に亡命中の五卿の他藩への移転」が条件だというのです。
「そんなことをして幕府に完全に恭順すれば、長州は滅びる」と危機感を抱いた高杉は、命を顧みず長州に戻ることを決意します。
望東尼は、三人の家老の訃報に落ち込む高杉に対して、このような歌を贈ります。
 「山口の花ちりぬとも 谷の梅開く春べを堪えてまたなむ」
そして、いつか帰るであろう高杉に対して、徹夜しながら縫い上げた旅衣を贈るのです。それは亡くなったご主人の反物でしたが、仕立てることができずに置いておいたものでした。
 
 「まごころをつくしのきぬは国のため たちかへるべき衣手にせよ」
 「惜しからぬ命をかかれ桜花 雲井にさかん春そまつべき」
無事に長州に戻れるよう、変装のための町人風の着物でした。下関の日和山の晋作の銅像は、その襦袢、袷、羽織を着た姿と言われています。
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高杉はその着物をおし戴いて、涙をこぼしながら何度もその歌を繰り返したそうです。そして、懐から懐紙を取り出し、お礼の漢詩を書きました。
 
  自愧知君容我狂   自ら愧(は)ず君が我が狂を容るるを知る
  山荘留我更多情   山荘我を留めて更に多情
  浮沈十年杞憂志   浮沈み十年杞憂の志
  不若閑雲野鶴清   若かず閑雲野鶴の清
 
   尋常ならぬ私のような者を山荘に匿い
   厚情を頂いたことに恥じ入るばかりです
   十年の浮沈みを重ねてなお甲斐のない私の志など
   雲間をのどかに翔ぶ鶴のような
   清々しい貴女には及びもつきません
高杉は、望東尼に深く謝して、11月21日に平尾山荘を後にします。
その後柳町遊郭で潜伏したり、宗像の早川勇を訪ねたりしながら、筑前の人たちの援助の軍資金をもらって、25日には馬関に帰ります。
望東尼のもとへ、高杉からお礼の手紙が届きます。
  拝し参らせ候
  先日己来、御厄害に相成り候
  千万恐れ入り奉り候
  いずれ又の御世にて
  御礼縷術致すべく候
  御歌数々拝し奉り候
  御老体御身、朝夕御保護専要に存知参らせ候
                   かしこ
    十一月二十七日朝 
  望東君            東行拝
「色々お世話になりました、二度と生きては会えないだろうから、あの世で会って礼を言いたい」という手紙でした  
その後、死ぬ気で挑んだ回天義挙、功山寺決起がうまくいって、高杉軍はついに俗論派を斥けたという噂が福岡にも伝わってきます。
 
 〜谷の梅という人、国の仇をたひらげたりとききて〜
  「谷深み含みし梅の咲きいづる 風のたよりもかぐはしきかな」
望東尼の喜びが、とても伝わってきますね。
しかし、時代は急変を告げようとしていました。
高杉の決起の成功により、長州は「倒幕藩」となってしまいました。
今まで、和平工作のために長州と幕府の間の周旋をしていた福岡藩主は、そのことに驚愕します。それはあってはならないことでした。左幕の立場の福岡藩主と、月形ら勤王の志士たちはここで大きく決裂したのでした。
世にいう慶応元年9月「乙丑(いっちゅう)の獄」 家老の加藤司書を始め、筑前勤王党はすべて粛清されてしまいました。11月15日には、望東尼も志士たちを匿ったり助けたりしたという理由で、「姫島に流刑」とされてしまいます。
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姫島は福岡・糸島沖合い4kmの小さな島。幕末には筑前の流刑の島でした。
今も、復元されて残る「望東尼の獄舎」
ここで、詠んだ歌
 「うき雲のかかるもよしやもののふの やまと心のかずに入りなば」
   私にも暗雲がかかってきた。それならそれでよしとしよう
   志ある武士の数に自分も入るならば
 なんという覚悟でしょうか! 勤王の女流歌人などと生易しいものではありません。まさに、勤王の志士であった野村望東尼でした。
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この風雨にさらされる獄舎で年を越し、約1年という月日を気丈に過ごします。
本人は、「死ぬまでここに置き去りにされる」という恐怖心があったと思いますが、島の人たちが差し入れをしてくれたり話相手になってくれたりして、和歌の創作を拠り所として生きていくのでした。
さて年明けの慶応2年といえば、6月に第2次長州征伐が始まり、高杉晋作は小倉戦争の海軍総督として采配をふるう、幕長戦争のまっただ中にいました。
同時に肺病を患い、小倉戦争を指揮するにも寝たり起きたりするような重篤な事態です。そんな中、福岡の脱藩藩士・藤四郎から望東尼が流刑にあっていることを聞きます。それを知った高杉は、救出作戦を発案し、自分は前線を離れるわけにはいかないので、救出チームを仕立てます。
救出部隊は6人
  筑前藩士 藤四郎、小藤四郎
  長州藩士 泉美津蔵
  対馬藩士 多田荘蔵、吉野応四郎
  博多商人 権藤幸助
6人が佐賀県唐津の浜崎を目指して、白石邸から三反帆の船で向かいました。
浜崎に1週間くらい滞在して、対岸の姫島の様子を探り、綿密な計画のもとに
「島抜け」が実施されたのです。
それは、慶応2年9月15日のことでした。
姫島から一旦、もうひとつの流刑地宗像沖の大島に寄り、そして玄界灘をそのまま進んで、馬関の白石邸に到着します。
生きて再会できると思わなかった高杉と望東尼。でも、高杉に残された時間は多くなかったのです。
やがて、小倉戦争の終決を見る前に、高杉は前線をはずれ闘病生活に入ります。
萩から来たマサ夫人とともに、望東尼は死ぬまで高杉の面倒をみます。
みんなの切なる願いも届かず、慶応3年4月14日、高杉晋作享年29歳で亡くなります。島抜けをして長州に来たために、福岡では大変な騒動になっており、望東尼は帰ることも親族に手紙を出す事もできません。そんな彼女の唯一の心の支えであった高杉が亡くなって、望東尼の嘆きようは他の人以上であったようです。
 
「奥津城(墓)のもとに我が身は留まれど 別れしいぬる君をしぞ思ふ」
高杉のお棺の中に入れてほしいと願って、短冊に書かれた和歌でした。
高杉亡きあと、望東尼は防府に移ります。そこで、長州藩主から「高杉が世話になった」という謝意を受け、二人扶持という食べることには困らない生活を約束されます。しかし、自分は筑前藩の者、他藩の恩恵を受けるのは心苦しいと語っていたそうです。彼女は高杉の後を追うように、同じ年の慶応3年11月6日にその生涯を終えます。
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山口県防府市の大楽寺に望東尼のお墓はあります。
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墓石の裏面に望東尼の生涯が記載されているのですが、それを書いた人が、まさに楫取 素彦でした。来年の大河ドラマ「花燃ゆ」のまさに文さんの2番目のご主人ということで、準主役ですね。望東尼も出演するらしいという噂ですが、ドラマの中でどのように描かれるのか、本当に楽しみです。

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望東祭、今年は琵琶演奏が・・・

秋の訪れを感じる福岡の平尾山荘です。

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11月6日は、野村望東尼様の146回忌でした。
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お経やご焼香が終わって、毎年恒例の筑前琵琶の演奏。
これがとても楽しみです
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大先生の中村旭園さんと若先生たち。
毎年お一人の歌と演奏なのに、今年はなんと3人!
気合い入ってます
旭園先生は「あ丶野村望東尼(姫島)より」という
この曲も作曲。
高杉晋作を匿った罪で糸島沖の姫島に流された望東尼。
それを権藤幸助ら、高杉の命をうけた報国隊隊士たちが
救いにくる場面を歌っています。
船が波をかきわけ玄海の海を渡る様子を、激しい
バチ捌きで表現します。
「野村の後室おわさずや 長州高杉氏の使いにて
我等迎えに罷りでぬ いざとくとくと・・・」
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素晴らしい演奏と、お年を感じさせないつややかなお声。
爽やかな秋の空に響き渡りました。
おぜんざいとお弁当、そしてこんな記念品まで
頂いて、今年も無事ご法要が終わりました。
合掌
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望東尼さんの梅

今年は梅が遅いのですが、平尾山荘の梅が気になりまして・・・
ここは少しずつきれいに整備されて、間もなく駐車スペースも
できるようです。

公園に近づくと、梅の清らかな香りが漂ってきて、しかも
「ホーホケキョ!」とどこからか・・・

まさに桃源郷に来たような思いをしました。
ちょっと早起きして来てよかった

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昨夜は市内で、『野村望東尼』の本を執筆された谷川佳枝子さんの
講演会がありました。望東尼さんのお話をたっぷり聞かせて頂きました。

前にもこのブログで書きましたが、どちらも高杉晋作の為に作った詩。
作家の方から紹介される和歌は、また感慨もひとしおです。
  
  冬深き雪のうちなる梅の花
  うまもれながらも香やは隠るる


  まごころをつくしのきぬは国の為
  たちかへるべき衣手にせよ


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望東尼さんのこのお顔の像の後ろには、こんな和歌が書かれています。

 
 うき雲のかくともよしや武士の
 大和心の数に入りなば


勤王の女流歌人として、自身もその覚悟を決めていたのですね。

これから、望東尼さんゆかりの太宰府や防府の天満宮の梅も
見頃になるでしょう。今年は行けるかな〜?

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高杉晋作の手紙

今日は、本当に冬らしい一日になりました。
先週に引き続いて、福岡市の平尾山荘ツアーを開催。
「平尾の町あるき 平尾山荘〜野村望東尼と高杉晋作〜と松風園」


山荘の樹々も紅葉して、晩秋の風情です。

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元治元年(1864)の11月11日にこの山荘に高杉晋作が匿われ
滞在すること10日間。 潜伏中なので、出歩く事もなく、
山荘の自然と野村望東尼の心遣いにふれ、穏やかな時間を過ごす
高杉晋作でした。

 
藩の俗論派から命を狙われ、九州諸藩の協力を求めようとした
高杉でしたが、結局どこも頼みにならずという状況に、意気消沈。
そんな高杉を、望東尼は励まし、元気づけます。

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高杉晋作は、この九州潜伏の間「谷梅之助」という変名でした。
勤王の女流歌人として名高かった望東尼は、和歌に思いをこめて
高杉を励ますのです。

  冬深き雪のうちなる梅の花 埋もれながらも春やはかくるる


山荘の雪深い冬に埋もれていても、梅の花が咲く春に必ずなりますよ、
と高杉の再起を促すのです。
国事で頭がいっぱい、いつも気の休まる時がなかった高杉が
次第に冷静さを取り戻していきます。


そんな中、11月20日の夜、長州から中村円太が戻ってきます。
円太は幕府軍の長州征伐が回避されたことを知らせます。
しかしそれは、禁門の変を指揮した長州の三家老の首を幕府に
差出し、その他に「山口城の破却。長州藩父子の自筆の侘び状。
長州に亡命中の五卿の他藩への移転」が条件でした。「そんな
ことをして、幕府に完全に恭順すれば、長州は滅びる」と危機感を
抱いた高杉は、命を顧みず長州に戻ることを決意するのです。

そして、11月21日に高杉が山荘を出発するのですが、その時、
望東尼はいつの間にかできあがった着物を渡します。


  まごころをつくしのきぬは国のため 
   たちかへるべき衣手にせよ


この写真は、その着物を着たと伝えられている高杉晋作像。
下関市の日和山公園にあります。備前焼の陶像です。

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高杉晋作は、松陰先生から言われた「死して不朽の見込みあらば
いつでも死ぬべし」ということを今こそ実行すべきとばかり
命の危険を顧みず、クーデターをおこすべく長州に戻って行きます。

長州についた高杉は、野村望東尼にこんな手紙を送っています。
この手紙が、本当にぐっとくるんですね〜


  拝し、まいらせ候
  先日己来、御厄害に相成り候
  千万恐れ入り奉り候
  いずれいずれ又の世にて
  御礼屢述致すべく候
  御歌数々拝し奉り候
  御老体御身、朝夕御保護専要に存知参らせ候
                  かしこ
  十一月二十七日朝

  望東君 東行拝

要は「生きて会えないと思うので、あの世で会って礼を言いたい」と
いう内容です。

しかし、結果は功山寺挙兵を成功させ、見事「藩論を倒幕」にまとめて
高杉晋作は最後の戦いに身を投じていくのでした。

その功山寺決起の成功を聞いた望東尼はたいへん喜びました。


「谷の梅という人、国の仇をたひらげたりとききて」
  谷深み含みし梅のさきいづる 風のたよりもかぐはしきかな


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しかし、ここからが望東尼を待ち受ける過酷な人生の始まり
でした。
高杉晋作を匿った罪で、糸島沖の姫島に流されてしまうのです。


さて、今日は町あるきですので、山荘をあとにして
今度は松風園(しょうふうえん)という素晴らしい
庭園に移動しました。

 
今日のお客様は、いままで行ったツアーからのリピートの方も
多く、20名のご参加でした。
ありがとうございます。
途中雨も降ったりしましたが、なんとか無事に最後まで
楽しんで頂いたようです。

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素晴らしいお茶室もあり、のんびりとお抹茶を頂きながら
静かな時間を過ごせる場所です。
またこのツアーを催行したいと思っています。
2人以上であれば行いますので、ぜひ皆様もご参加くださいね!

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高杉晋作〜平尾山荘に潜伏

今日、元治元年(1864)11月10日は、高杉晋作が筑前・平尾の
平尾山荘に潜伏したといわれている日です。
このお話は昨年に書いていますので、今年はちょっと別のお話を。


谷川佳枝子 『野村望東尼 ひとすじの道をまもらば』より抜粋します。


高杉の福岡潜伏

 元治元年11月4日、筑前に上陸した高杉は、博多鰯町上(いわしまち
かみ)現在の博多区須崎町の対州問屋・石蔵屋卯平宅に対馬商人として
投宿している。
この石蔵屋で高杉は早速、福岡藩の月形洗蔵、鷹取養巴、早川勇らと
密かに面会した。
 月形らは福岡・佐賀・対馬の三藩連合を計画し、高杉を対馬藩家老で
尊王攘夷派の平田大江と会見させるために、同志とともに同藩の飛び地で
ある肥前国田代に向かわせた。
高杉は11月8日に田代に着き、平田と面会したが、この時期対馬藩では
左幕派が優勢となっていたので、期待したような結果は得られなかった。
高杉は、田代から佐賀藩主・鍋島閑叟にあてて漢詩を送ったが、こちらも
一向に反応がないままであった。つまり、九州は藩論すら一致していない
状態であったので、月形や中村らの計画は呆気なく頓挫してしまったので
ある。

高杉は前途へ向けての方策を見いだせないまま筑前に戻り、11月10日
博多水車橋(博多川にかかる橋)のそばに住む画工・村田東圃宅に身を
寄せた。しかし、村田宅は人目につきやすい場所にあったので、彼は
月形らの手配で望東尼の住む平尾山荘に潜伏することになった。


その後、谷川さんは、「高杉が山荘に行ったのは、11日であったか
12日であったか不明である」と書かれています。
しかし、大概の書籍には11月10日という説が多く、多分「動けば
雷電の如く」ですから、村田さんのところが「ヤバい!」と思えば
10日の夜に転居したというのは正しいような気がします。


高杉は「谷梅之助」という変名で山荘を訪れました。
望東尼はわずか10日の間、高杉を厚くもてなしました。

 谷梅といふ人
  世を憚りてありけるに
 冬深き雪の中なる梅の花
  埋もれながらも香やは隠るる


さて、今年はこういった二人の歴史秘話を「町あるき」の
イベントでご紹介したいと思っています。

ご興味がある方はぜひご参加くださいね。

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野村望東尼のご命日でした/平尾望東祭

昨夜から降り続いた雨が今朝まで残りましたが、
福岡市の平尾山荘で、没後145回目の望東祭が
今日11月6日、にぎやかに行われました。

今回は、下関の東行庵、幕末維新村という高杉晋作にゆかりの
団体の方々、そして防府と糸島の望東会の皆さんが来賓で来られて
荒木会長のご挨拶にも、しっかりと「高杉晋作」のことが入って
いました

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この山荘で、望東尼さんと高杉晋作が国事を憂えて
維新回天の決意をした、と。二人のこの偉業をずっと
伝えていかないといけないというお話でした

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最後に昨年と同様、筑前琵琶の奉納。
これが大変素晴らしかったです。


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かき鳴らす琵琶の切ない音色、そして艶のある朗々とした声で
野村望東尼の一代記を歌います。約10分、一同、深い感動に
包まれた時間でした。
一節はこのような内容です。

 福岡城下の町外れ 平尾の里の山荘に
 月・雪・花を友として 詩にこころをやみければ
 平野二郎はじめ高杉晋作ら国を憂うるますらおが
 ここを密議の場所となし
 千々に心を砕くうち
 藩論にわかに一変し
 加藤司書ほか六人をはじめ月形洗蔵以下十五名
 切腹、打ち首、遠島と皆それぞれに仕置きさる

 中にはあはれを留めしは、女性(にょしょう)の身にてただ一人
 波風荒き玄海の名も優しき姫島に
 突き放されてあさましや
 「浮き雲のかくともよしや もののふの大和心の数に入りなば」

勤王の女流歌人というよりも、本当に壮絶な人生だった望東尼さん。
いまにこうしてたくさんの方に守り伝えられているのです。


この山荘公園に、立派な石碑があるんです。


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よーく見ないとわからないのですが、「高杉春風がここに潜伏」という
紹介がされています。 ここにいらしたら、ぜひ見て帰ってください。

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平尾山荘

 西鉄平尾駅から歩いて15分。
 
 今度「平尾歴史町あるき」を行います。ぜひご参加ください。


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平尾山荘ツアーを行います!(10/30訂正)

今日の福岡地方は小雨が降ったりやんだりの一日でした。
天神あたりではいろんなイベントが行われていましたが、みんな
雨に濡れながらでしたね。

町のところどころで紅葉もみかけられます。
秋深くなると、福岡平尾山荘にスポットでしょう。

もうすぐ「野村望東尼と高杉晋作の出会い」の11月を迎えます。
読売新聞の女性読者のためのサイトを運営している私の友人から
こんなうれしい情報を発信してもらいました。


福岡情報発信局セサミ

 野村望東尼

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11月23日(祝)に、福岡歴史探訪ガイドの主催で
平尾山荘と松風園ツアーを開催します。
平尾山荘では、「野村望東尼と高杉晋作のお話」
私も主催者の一員として、お話をさせて頂くのですよ
松風園では、お庭見学しながら抹茶とお菓子を頂きます。

そんなツアーですが、もし読者の方でご参加できる方はぜひ
お申し込みください。 町歩きイベントです。

 
 


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平尾山荘と松風園を訪ねて〜浄水通りをそぞろ歩き〜 *30名限定
 
  ■11月23日(祝) 13:30〜15:30
  
  ■集合時間 13:00  西鉄平尾駅前に集合してください。
              歩きやすい格好で!

  ■参加料:800円+松風園入場料 *資料とお抹茶・お菓子つき
            *入場料は通常100円ですが、65歳以上の方は無料

  ■平尾山荘、松風園、浄水通りのおしゃれなスイーツショップも
   ご案内します。


 

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観月会/平尾山荘

めっきり秋らしくなって、
虫の声を聞きながらこのブログを書いています。


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今年の仲秋の名月は9月12日(月)です。
福岡市の平尾山荘では、恒例の「平尾山荘での観月会」が行われます。

夕方の6時30分より山荘跡地で、お酒とおつまみ、並びにお団子が
ふるまわれるそうです。ただし、参加費1000円。

お申し込みは、平尾公民館の「平尾望東会」へ
 092-531-9885

これ、今日歯医者さんの受付に飾ってあったミニチュアオブジェ。
ウサギの大きさは2cmくらい。


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それから、新聞ネタですが、下関の功山寺のあの山門が改修工事に
入るそうです。昨日6日の読売新聞下関版に載ってました。

功山寺は1320年創建。1864年に高杉晋作が藩論統一のため挙兵した
ことで有名です。
近年老朽化がすすみ(以前からそうだろうな〜と思ってました)
山門の改修に1億5千万円、五卿が潜伏した書院などは3千万、
合計1億8千万円かかるそうです。ワォ
2014年は、ちょうど高杉晋作挙兵から150年という節目の年で
それまでに完成を目指すそう。
改修工事、どんな風に行われるのか、
それもすごく興味があります。
しばらく見られなくなるというのは残念ですから、
今の姿、素材感を近いうちにまた見ておこうと思います。

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平尾山荘といい、功山寺といい、これらは幕末の第一級史跡です。
大事にしながら、イベントなどもしながら、守り伝える人たちに
敬意を表して

地震や台風など、今年は本当に「諸行無常」を思い知らされます。
せめて十五夜は、静かな秋の夜になって
穏やかにお月様を拝ませていただきたいですね。

   

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梅も見納め/福岡・平尾山荘

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今日から3月ですね。

しだれ梅が、ちょっと遅れて見頃を迎えていました。
昨日から雨がふっていましたが、早起きして雨上がりの平尾山荘へ

日本列島は長い。
天気予報を見ると、まだ東北や北海道は雪なんですよね。
福岡市内では、梅が満開を過ぎているところも多いです。

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満開の桜は華やかで美しい
でも何なんでしょうね〜
年をとるごとに、梅の花の姿とその香りの
清々しさに魅せられる気がします。


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平尾山荘は剪定作業が終わって、すっきりとしています。
裏側から山荘の姿も見えて、梅、桜、紅葉、と美しい全景が
楽しめる感じです

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慶応3年4月14日に高杉晋作は帰らぬ人となりますが、
下関の桜山招魂社の近くのこの地「桜山東行庵」に
前年の10月にうつってきます。
それまで白石正一郎邸で手厚く看病されていたそうですが、
家族に病気をうつしたくないという
せめてもの高杉の心配りだったとか


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ここで梅を見ながら作ったのでしょう。
七言絶句の連作があるのですが、そのひとつを


 見得黄昏添一花 黄昏どき一輪の梅が開いているのに気づいた
 清姿興月入窓斜 清楚な影が月の光とともに窓から斜めにさしこむ
 坐来忽覚心懐爽 たちまち気分がさわやかになる
 知是花神駆病邪 花の霊が病邪を追い払ったのだ

とてもさわやかな句ですが、一方自分の病状を冷静に
見据えた詩もあります。

 膚ハ秋草ノ末ノ如ク
 肉オチ骨痩スルコト頻(しきり)ナリ
 思イ至ルハ無門ノ地
 胸間別ニ春有リ


病気がどんどん悪化して、骨と皮ばかりになっていくのは
どんなに恐ろしく悲しかったことでしょう。

でも三味線を弾き、詩を作り、たくさんの人に愛された
短くても、心浮き立たせる花の季節のように
そんな人生を駆け抜けた、高杉晋作という人。

清々しい梅の香りがただようと「ここにいるよ」と
語りかけているような気がします。

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平尾山荘、梅の見頃です

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もうこんな感じになってます。
公園と道路の間に、紅白の梅が順番に植えられていると
先日紹介しましたが、その通りに咲いています。


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望東尼さんの歌

  植えそめし
   梅の木のもとかこむとて
     藁おく手にもふる霰(アラレ)かな

山荘には桜の木が多いのですが、望東尼さんは梅も植え、
その防寒のために自ら藁で覆ったりしたそうです。
 


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草庵は、望東尼閑居時代のものは早く廃屋となりましたが
明治42年に結成された向稜会によって復元されました。
その後昭和27年に、望東会に引き継がれて再建築されたものが
現在のこの形になっているそうです。
藁葺き屋根の葺き替えは去年行われています。


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中も自由に入れます。上がり口のところから見ると
こんな風なお家です。

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山荘に高杉晋作をかくまった10日間、二人はいろんな話を
したことでしょう。
吉田松陰先生の話、奇兵隊の話、上海で経験した衝撃的な世界・・・

小石房子著 『流人 野村望東尼』のくだりに
こんなやりとりがあります。

「谷ぬし(*谷梅之助という変名で高杉は筑前に潜伏)には
 ご妻子はありますか」

「はい、4年前に妻を娶り、先月の5日に長男が生まれました」

「それはめでたか。してお名前は何といわれます?」

「梅之進と名付けました」

「それでそなたは梅之助?」

望東尼が梅之助の情愛の深さを感じて微笑むと、
梅之助は頭を掻いて、

「梅の花は新しい年を数える花だから好きです。それに
 春がきてほしいから、息子は梅之進と名付けました」
とこたえる。

「わたしも梅の花が好き。梅之助という名もよか名前です。
 ばってん、私はおぬしを東行さんと呼びたかです。
 わたしの法名は東を望むと書きます。わたしは東を望み
 そなたは東へ行く。それでわたしはおぬしを東行さんと
 呼びたかです」

「それがしも法名の東行を名乗りたいのですが、今は
 梅之進の父親の梅之助にしてください」

「わかりました。梅の花は冬の終わりを告げ、春ば
 教えてくれる。一日も早く春が来るよう願って、
 山荘では梅之助さんと呼びましょう」

望東尼が微笑むと、
「梅之進には家を守り、両親を安堵させて欲しいと
 願うております」と梅之助は笑顔を返す。


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高杉晋作は、この平尾山荘で梅を見る事はありませんでしたが、
山荘の四季の風景のなかで、やはり梅の花を見るのは
私自身は特別な感じがします。

冬の終わりを告げる梅の花
今山荘公園は清々しい梅の香りに包まれていますよ。
ぜひお出かけください。

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