北九州

小倉戦争、長州藩の本陣「大里」

北九州市門司区、JR門司駅周辺に大里(だいり)というところがあります。
目の前に関門海峡が広がり、後ろには戸の上山があるという地形。

大里は、はじめは「内裏」でした。これは壇ノ浦の合戦、源平の戦いで
1183年(寿永2年)、この地に平家方の安徳天皇の御所(柳の御所)が
あったことに由来します。
そして、享保の頃、この地に海賊が出没し、内裏の海に血を流すのは恐れ
多いとして「大里」に変更されたそうです。


その大里に「門司赤煉瓦プレイス」というエリアがあります。
昔、サッポロビール門司工場があったところで
学生時代によくこの海岸通り、眺めながらで走っていました。

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ここは江戸時代、長崎街道・門司往還、豊前大里宿でした。
藩主細川忠興が本土への渡海に最適な地として宿駅を設置しました。
江戸中期以降、参勤大名の8割が大里宿より渡海往来したので
幕末には大いに繁栄したそうです。


当然、密貿易などを取り締まった「長崎番所」なる機関なども
あったようです。


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これは、大里宿の絵図の一部ですが、下の方、まさに大里から
赤間ヶ関へと向う航路があります。


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小倉戦争、長州藩が幕府と戦った慶応2年(1866)
7月3日の「大里の戦い」は高杉晋作の渡海上陸作戦
大里の攻略が目的でした。
そして7月27日に3度目の渡海上陸作戦を敢行した際には、
高杉は大里に陣を構えて、軍勢を山側の大谷口と海岸側の
赤坂口の2手に分けて攻撃させます
この大里の陣で、小倉城陥落をじっと待ったのは
敵味方ともに無駄な死傷者を出さないということからでした。

今はこんなに素敵なカフェやギャラリーなどに変身した赤レンガ館です。
激戦の地、という感じはありませんが、今まで通り過ぎるだけだった
大里のこのエリア。 とても素敵なスポットなので、今度はゆっくり
訪れてみたいな〜と思いました。

 


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門司赤煉瓦プレイス

  北九州市門司区大里  JR門司駅そば

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8月1日小倉城炎上

今日から8月になりましたね。

前回の続き、小倉戦争の終焉、小倉城炎上について書きます。


北九州市小倉北区にある小倉城。大手門側から見た天守閣です。


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1866年(慶応2)7月20日に、将軍徳川家茂が大阪城で死去。
次期将軍は一橋慶喜しか人材がいなかったが、幕府内には異論が
多く、あの天障院篤姫からも嫌われていたそうです。
そこで、
「よし!征長に出陣して長州に一撃をくらわせて面目をたてよう」と
思ったのかどうか、旗本たちを前に出陣の大演説を行い、士気も
充分に上がっていたそう。
ところが、その大演説をしたその日に、小倉城が堕ちたという報せが
あり、慶喜は一気に戦意を喪失したそうです。


そもそも小倉戦争の幕府軍といっても、小倉の小笠原藩、肥後藩、
その他諸藩の寄せ集め。
高杉晋作は3度の上陸作戦で徐々に追いつめていきます。
対して幕府からの援軍がない各藩の怒りは日増しにつのる上、
ついに肥後の長岡堅物は小笠原藩から「彦島を占領せよ」と
命じられ「もうやってられるか」と激怒して
全軍撤退に至りました。

その肝心の小笠原藩・小笠原長行ですが、将軍家茂逝去の報せを
受けていました。
その後の行動がオドロキです
こっそりと陣営を抜け出して海路で大阪に逃亡したのです。
ヒドイよね〜

それを知った家老以下、小倉藩は絶望するでしょうよ。
急遽、評定を行い城に火をかけて撤退、という苦渋の決断に
至りました。

一方、高杉晋作も無理に攻めて無駄な死傷者は出したくない。
そこで小倉城近くまで接近しながらも小倉城の自滅を待ちました。
そしてついに8月1日、小倉城は炎上したのです。
その時、戦利品として持ち帰った小倉城の太鼓が、
現在は下関の厳島神社境内にあります。


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またこちらのPVでも見てくださいね

高杉晋作 かなよ 〜愛しいひと〜


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四境戦争/小倉城

セミがこぞって鳴き出して、「あ〜、夏本番」という今日この頃、
いつも読んでくださってる皆様には「暑中お見舞い申し上げます

お城めぐりって昔から夏によく行ってた気がします。
というわけでもないのですが、やっと取材に行けた「小倉城」です。


これは「大手門」側からみた小倉城の正面。
リバーウオーク北九州というユニークな建物を借景に
りりしく見えますね。

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1600年、関ヶ原合戦の功績により、細川忠興は豊前一国と
豊後國で二郡を与えられ、中津城に入りました。
しかし交通の要衝でもあり、外様の毛利氏ににらみをきかすため
居城を小倉に移し、1602年に築城したそうです。

しかし不運にも1837年に城内から発した火災によって城は全焼し、
その後天守閣は再建されなかったそうです。
なので、今ある天守閣は復元されたもの。

そして細川氏は細川忠興・忠利の2代で終わり
替わって、明石城主だった小笠原忠真が小倉藩主になりました。
それは1632年のことです。

時代は上って
小倉戦争前年(1865)に9代目藩主の小笠原忠幹(ただよし)が死去。
世継ぎは4歳の幼児だったので、幕府の総督として
老中の小笠原長行(ながみち)が着任しました。

長州藩との小倉戦争で、慶応2年(1866)に小倉城は炎上してしまいます。

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天守閣から見たシャチホコ


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お城に隣接する八坂神社! お堀を挟んで鎮座してます。
私は学生時代を小倉で過ごしましたので
小倉城茶会や小倉祇園見物など、たくさんの楽しい思い出があり
このお城や神社は大好きです。


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小倉城庭園です。眼下に広がる小倉の市街と、
右端「北九州市役所」とビルの狭間、遠くに見えるのは足立山。

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小倉城の中は、ジオラマがある歴史ゾーンや企画展示、
また体験ゾーンなどがあって入場料350円で楽しめます。

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幕府を相手に始まった四境戦争、その中で特に高杉晋作が指揮を
とったのが、この小倉口の戦いでした。
1866年6月16日に始まり、最終的に幕府が撤退したのが
9月4日といいますから、一番熱く長い戦いでした。

初日の6月16日、幕府軍は肥後藩、久留米藩、柳川藩などあわせて
2万の大軍! 対する長州藩は奇兵隊や長府報国隊など1000名。

高杉晋作は丙寅(へいいん)丸に乗り込み、帆船の癸亥(きがい)丸・
丙辰(へいしん)丸と共に田野浦港に向います。
そしてもう一隻の乙丑(いっちゅう)丸には、坂本龍馬が乗って
参戦。というか、野次馬見物。 *船を約束通り返しにきただけ。

そうやって長州藩の船団は田野浦と門司浦を砲撃して、
結果緒戦を勝利で飾るのです。

 対岸の田野浦地区

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こういったお話が詳しく載った本
これ、とてもわかりやすい解説書です。
小学館発行 週刊『戦乱の日本史・新説 四境戦争』です。

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ここから抜粋して紹介します。

7月27日、長州軍はいよいよ小倉攻略をめざして、
 3度目の渡海上陸作戦を観光した。
 軍艦が援護射撃をしながら800名が上陸すると、高杉は大里
 (門司の地名)に陣を構えて、軍勢を山側の大谷口と海岸側の
 赤坂口の二手に分けて攻撃させた。
 ここを打ち破れば小倉の城下までは目睫の間である。
 しかし、大谷口と赤坂口には最新鋭のアームストロング砲を
 供えた肥後藩兵が構えていた。さらに海上の幕府艦3隻が
 大里と赤坂の間を砲撃したため、長州兵は屍を越えて戦ったが
 ついに撤退。初めての敗北を喫した。

というわけで、一進一退を繰り返しながら、8月1日小倉城炎上⇨勝利
まではまだ随分と死闘がありますが、そのお話はまた次回に。

先日、大里で「大里宿跡」という史跡を見つけましたので、
また後日ご報告したいと思います。


夏休み、小倉城はおすすめです。
宮本武蔵と佐々木小次郎、巌流島の決闘の資料なども
ありましたよ。決闘に使われた刀などのレプリカも触って楽しめます。


 小倉城
 北九州市小倉北区城内2-1
  8:45〜21:00 年中無休


番外編

 お殿様が使っていたトイレ。やっぱり畳敷きなんだ!
 かつおぶし削りのように、引き出し式の箱に落ちたものを
 侍従が毎日健康チェックしてたそう


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やっと行けた、延命寺

北九州市小倉北区上富野、国道3号線沿いに「延命寺」はあります。
ここは、小倉城の位置から見て鬼門の東北を守る、という
意味で鎮座しています。「東北山・延命寺」が正式名のようです。

 

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禅宗の黄檗宗というわけで、なんだか中国風の外観です。

さらに、小倉北区にある足立山より東照大権現(徳川家康)宮も
移し、延命寺の住職は代々東照宮の別当も兼務していました。

そういうわけで、慶応2年(1866)に小倉戦争で豊長の変が起きた際、
このお寺は長州軍により火をかけられ消失してしまいます。
長州の奇兵隊のかっこうの標的になったのでしょう。

その後明治初年(1868)に菜園場(さえんば)にあった妙行寺を
引き移し小庵を建て、豊長の変での没兵士たちの霊を慰めました。
そして、黄檗宗のお坊様の手により今の姿になったと伝えられています。


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お寺の敷地の中には、このようなお墓がありました。
上が欠けているけど、何かの本で
「延命寺には長州奇兵隊の戦死者の墓もある」と
読んだことがあります。


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このお寺の存在を知ったのは、昨年ブログで紹介しましたが、
「大田・絵堂」にある金麗社の灯籠のいわれを見たからです。


  こちらが、山口県美祢郡美東町にある金麗社の石灯籠
   *灯籠の裏に「元治四年丁卯秋七月立 奇兵隊」と書かれてある!

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これは、戦利品としてまさに「延命寺」にあったものを一対とも
持ち運んだ、と説明書きに書かれていました。
よくも、こんな遠くまでと改めてオドロキです。

最初、四境戦争が始まる前に、長州藩からは小倉藩に
小倉砲台をぜひ貸してほしい、長州側に味方してほしい、と
頼みにいったそうですが、あっさり断られてしまいました。

近い対岸の藩同士ながら、横たわる海峡の如く
徹底的に敵味方になってしまいました。悲しいね
大里から赤坂(今の3号線沿い)にかけては
かなり悲惨な戦いが繰り広げられたそうです。
車で3号線を走っていると、
お寺がずーっと並んでいて不思議な道だなぁと昔から思ってました。
高台から海峡が臨める素晴らしい街並なんですが・・・

さて、私がよく参考にさせてもらってる「長州維新の道」と
いう本があります。
そこの新刊が発行!という情報を、発行元・のぶ工房様から
お知らせ頂きましたのでご紹介しておきます。
文章も写真も素晴らしく、読み応えのある本ですので
長州ファンはもとより幕末ファンの皆様はぜひお求めください。 
おすすめです


  長州維新の道 下巻 萩往還

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突然のお別れ、さよなら、そしてありがとう

突然の訃報がきたのがおとといの夜。

「そんな、まさか」と半分信じられない思いで昨夕訪ねた

白石さん宅の仏間には新しい祭壇ができていました。

白石正一郎さんの曾孫、白石雪雄さんが亡くなりました。

知り合って8年、公私ともにお世話になりましたが

いつも優しくてユニークな方でした。

ご自身が白石正一郎さんの子孫、と私が知ったのは3年くらい前ですけど・・・

実は知る人ぞ知る、といった具合で、子孫というのは隠して生活して

いらしたのです。

白石正一郎の名前はあまりに重過ぎる、ということで。

ありし日の白石雪雄さん

北海道の龍馬記念館に、白石家に残る茶碗を寄贈して

龍馬記念館の名誉館長になったことをうれしそうに教えてくれました。

私のこのブログの白石さんのお話のページ、プリントアウトして

差し上げたらすごく熱心に読んでくださったこと。

高杉晋作が白石正一郎さんにおねだりして買ってもらった

三味線の一本(ほとんど未使用)を見せてくださったことも!

これは白石家にキープしていたそうですが、

使う前に高杉さんは亡くなってしまったのですね。

逸話として、佐賀に三味線の名工がいて、そこにオーダーして

作ってもらったのが3本あったそうです。

1本は遺品として有名な東行庵にあるもの、1本は高杉が

宴会で壊してしまって、というエピソードも教えてくれました。

もちろん、白石家の浜門の場所や、子供の頃におばあちゃんから

聞いた正一郎さんのお話など・・・

もっともっと教えて頂きたいことがあったのに残念です。

昨年秋には、高杉晋作の曾孫の高杉勝さんがお亡くなりになり、

今年のお盆には東行庵にある先祖代々のお墓に入られると

聞きました。

この同じ年に、高杉晋作、白石正一郎、二人の曾孫の方が

初盆を迎えられるというのも不思議な因縁だな~としみじみ

感じます。

いろんなことを思い出しながら、このブログを書いています。

果たせぬ夢がおありだったから、たいへん無念でありますが

ひたすら感謝を申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。

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