世田谷・松陰神社の時代祭
初めて行ってきました
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文久2年(1862)12月12日のことです。
以前も書きましたが、東京御殿山に英国公使館が立派に完成し、
それを高杉晋作ら13人の攘夷派の志士たちが襲撃を決行しました。
新人物往来社の『伊藤博文 直話』にある、そのあたりのくだりから
当時の状況をご紹介したいと思います。
今の東京の品川1丁目あたりに「土蔵相模」という遊郭があり、
そこをアジトにしてその作戦は練られたようです。
井上聞多の馴染みの遊女、お里の部屋が謀議室となり
羽織の裏に白木綿のきれを縫い付けて準備。
いざという時には、この白筋を目印にして、敵にあった時に
同志討ちをしないようにする、としました。
さて今でいう午前一時頃、土蔵相模を出発します。
現地に着いてみると、公使館の周囲には大きな丸太の
柵が張り巡らされていて侵入が難しい。
いずれも顔を見合わせて当惑したところに、伊藤が
かくしもってきたノコギリを出すと、皆の歓びは
たとえようもなかったと記されています。
しかし、多くの小説には高杉から「ノコギリを買ってこい」と
言われた伊藤俊輔は・・・と書かれてあるのですが
どちらが本当やら
また煙硝を持参する役だった井上聞多が、こともあろうに
肝心なそれをお里の部屋に忘れてきます
そこで仕方なく、公使館の部屋に入って戸障子に火をつけて
いったそうです。
それでも結果はうまく大火になり、サァ逃げろ
火は燃え広がり、消防夫がどしどし繰り出してくる。
それをみて一同大喜びした後、離ればなれになり
酒楼で勝利の美酒を味わいました。
御殿山英国公使館は、品川3丁目と4丁目の間あたりに
あったと言われています。
そのあたり、今は線路で分断されています。
明治になって総理となった伊藤博文に、
「閣下は昔強烈な攘夷派で、ずいぶんやんちゃもされた
そうですね」と記者に投げかけられた時、
「あの時はああじゃなくちゃならんかったんじゃ」と
うそぶいたそうです。
政治家は、それくらい本音を言うべきかな?
さて、この英国公使館焼打ち、という命がけの仕事を
した後は、明けて1月に吉田松陰先生の遺骸を改葬し
ついに高杉晋作の魂が「回天義挙」に向かって本格的に
動いていくことになります。
功山寺決起、その時まであと1年です。
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「晴れ女」と自慢していたのに!
28日の朝、ホテルを出ると冷たい雨
とりやめようかな、とも思ったけど
何となく気になって、「靖国神社」に行く事にしました。
前日新宿に泊ったので、そこから九段下に向かいます。
雨が降りしきる中、神社は駅からすぐだったのでよかった
*写真はクリックして頂けると大きくなります。
参道が300mあるそうですが、清々しい道を歩いて行くと
ずいぶん高いところにある銅像
芸術的にもかなりいいものみたいなのに、
高すぎてよく見えないなー
「おぉっ!」 足元の銅板に書かれたものを見ると
長州藩士・大村益次郎ではありませんか
明治2年に戊辰戦争が終結した後、この旧幕府兵屯所跡に
大村益次郎らを中心としてこの祈念社が作られたということです。
肌寒い中でしたが、一気に期待感が湧いてきました。
靖国神社、想像ではかなり広い所と思っていましたが、
この雨の中でも比較的歩きやすそうです。
参道からずっと、すごくすっきりしてクールな印象の神社。
よくある五色の幟などなく、モノトーンでまとめられているのは
ここが、日本が近代国家になるために犠牲になった250万近くの
英霊が祀ってある神社だから、と案内の方に聞きました。
(不勉強でお恥ずかしい)
明治維新前に亡くなった人たちを祀った「今宮」です。
そして、本殿の横をずっと歩いて行くと
「幕末志士ゆかりの練兵館跡」という史跡がありました
立て札にはこう書いてあります。
この練兵館は、神道無念流の剣客 斉藤弥九郎により、それまで
俎橋付近にあった練兵館が天保9年(1838)の火事で類焼したため
この地に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。
練兵館には、高杉晋作、桂小五郎、品川弥二郎など幕末の志士が
多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。
また、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれる。
なお、この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵
(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三大道場といわれている。
おおぉ〜 ここだったのですね。
靖国神社に、高杉のゆかりのスポットがあると、何かで
読んでいてそれが気になっていたのですが・・・
桂小五郎の剣の腕前はすごかったようで、
一度高杉と立ち会って
即座に高杉の素質を見抜いたそうです。
「晋作、おまえには剣才がない。他の道を選べ」
そういわれて、高杉も素直に剣の道は諦めたとか
この練兵館跡
雨の中を来た甲斐があったというもの
すごくうれしかったです。
さて、靖国神社の境内にはたくさんの桜や槙の木があります。
その一本一本に、こうした札がかけられています。
色んな戦争で生き残った方たちや、その方たちを偲ぶ団体から
寄せられた献木なのです。
倒幕戦争から近代の戦争に至るまで
日本の近代国家の礎となって尊い命を捧げた
250万近くの犠牲者。
その方たちを祀ってある神社ですから、
本当に日本人としては必ずお参りしないといけない
そういう思いを強く持ちました。
A級戦犯を祀ってあるから、といって首相の参拝が
外国から非難を浴びたり問題になりますね。
私たち日本人、あるいは日本に住む一人一人がここを
訪れて、何かを感じるべきと思います。
心から「合掌」です。
靖国神社
東京都千代田区九段下3-1-1
旅のおまけ
今回の東京の「徒然なる旅」は、回向院と靖国神社と、かなり
シブい話だったので、「超新しいスポット」も紹介します
今噂の「新羽田国際空港」です
帰りの飛行機の時間、ちょっと早めに向かって
新しいビルディングに入ってみました。
よくテレビで紹介されている赤い鳥居。
人がたくさん集まってて、何かと思えば「忍者ショー」
ウケる
江戸の風情を表現したショッピング&グルメ通り
手ぬぐいとかの和雑貨に、かなり興味をそそられます。
11時を過ぎるとレストラン街は長い列!
私は、『玉ひで』の親子丼を食べました。
東京の老舗の味の一つで、見つけたときは
「ラッキー」って感じ
確かに美味しかったですよ〜
皆さんも東京に行かれるときは、おのぼりさん気分が満喫できる
新羽田国際空港ロビー探索 おすすめです
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10月27・28日と東京出張でした。
吉田松陰先生が処刑された日が1859年10月27日ですが、
私は東京にいるという、また不思議な巡り合わせ。
前回に松陰神社はお参りしたので、今回は小塚原に行ってみました。
27日、東京は快晴
イベントや旅行の時はいつも「晴れ女」を発揮する私
JRで南千住駅に到着です。
1651年からというから350年前、このあたりは小塚原といって
一帯が処刑場でした。
今は地名が南千住駅となり、駅舎も新しく高架の工事なども進行中。
昔の面影をなくすように街の開発が進められています。
そのJRの駅前に、今回の目的地「回向院」があります。
1651年(慶安2)に最初の処刑場とされ、その頃は埋葬などが
きちんと行われず、土をかぶせただけということで
動物たちが遺骸を食い荒らすなど、まるで「地獄絵図」を見る
ような状態だったそうです。
それを見かねて1667年(寛文7)本所・回向院の住職さんが
ここにお堂を建てたことが、こちらの回向院の始まりです。
明治初期までに20万人以上が処刑され、
「安政の大獄」により、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰と
歴史を深く刻んだ方々もここで露と消えました。
墓所の前にある小さな看板がそれを伝えています。
さて、松陰先生のお墓は?
このつきあたりがそれだそうです!
今日は「祥月命日」ということで、朝からスーツを着た人など
いつもより多く参拝があった、とお寺の方から聞きました。
やはり、知ってる人は知ってるんですね
私もお線香を供えさせていただきました。
墓石に書かれている名前ですが「松陰 二十一回猛士 墓」です。
見えますか?
*写真はクリックして頂くと大きく見えます
先生の幼名は杉虎之助、吉田家に養子に入って大次郎。
通称は寅次郎で、号が松陰、また二十一回猛士だったとのこと。
「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に
分解し、これらを合計した数字が「二十一」となる。また「吉田」の
「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み
合わせると「二十一回」となることによりつけられているそう。
先生って、やはり複雑というか、今でいうと「めんどくせー」と
言われそうな人ですね *ごめんなさい!
当時、政治犯はほとんどさらし首にされたそうです。
桂小五郎などが賄賂を使ってうまく動き、松陰先生の首は
その汚辱にあうことなくこの回向院に遺骸は埋葬されました。
1859年に処刑された時、吉田松陰先生はまだ29歳という若さ。
以前書きましたが、先生の処刑のことを知らずに
高杉晋作は萩に帰っていくのでした。
大老・井伊直弼の権限で死罪となったということ、
また自分を萩に追い返した江戸藩邸の連中に
高杉は深い憤りを感じ、周布政之助に手紙を書きます。
「我が師松陰の首、遂に幕吏の手にかけ候の由、
防長の恥辱、
口外仕り候も汗顔の至りにござ候。
私共も師弟の交わりを結び候ほどの事故、
仇を報い候はでは安心仕らず候。」
吉田松陰も高杉晋作も「忠義」を重んじた律儀な武士でした。
特に松陰の精神的緊張が並外れて純粋で、実直であった故に
後の人々に深い感動を与えていると思います。
この時代の矛盾や苦しみを自分のものとして、真正面から
対決し、若くして死に至った松陰先生。
もうひとつ辞世の句といわれるもの
「呼び出しの声まつほかに今の世に
待つべきことのなかりけるかな」
「面白きこともなき」と詠んだ高杉と比べるといけないけど
その状況はあまりにもやるせないですね。
でも松陰先生が殺された故に、徳川幕府に対する憎しみ、
それがさらに純化して、倒幕運動のエネルギーとなったのは
間違いないでしょう。
まさに「忠臣蔵の世界」のようですね。
さて4年後の1863年、高杉ら弟子たちによって
この回向院から世田谷若林の大夫山に
松陰先生の遺骸は移送されます。
なので、この回向院のお墓には何もありません。
先生が最初に埋葬された、という歴史が残っているだけ・・・
お骨は、世田谷の「松陰神社」のお墓の中に、
そして萩の団子岩にあるお墓には遺髪が納められています。
さて、回向院を出て、高架の方にまわってみると
処刑場跡に作られた大きなお地蔵様があります。
「小塚原の首切り地蔵」 お顔は優しいのに、超コワネーミング
20万人以上という人たちが処刑された、と書きましたが
たくさんの憂える魂をこのお地蔵様が慰めているのでしょうか。
周囲は再開発工事が進んでいるのですが、
このような歴史はずっと伝えていかないといけないですね。
高杉晋作も先生の墓参りとして、何度もこの地を
訪ねているようです。
南千住 回向院
所在地:東京都荒川区南千住5-33-13
JR常磐線・地下鉄日比谷線南千住駅より徒歩2分
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10月6・7日と東京出張でした。
ホテルが浜松町で、増上寺のすぐ近くなので
朝ご飯前に散歩に出かけました。
立派な御門です。さすが、徳川家の菩提寺
朝7時の秋空です。増上寺のバックに東京タワー
すごいコントラスト!
本殿でお参りをして、
その裏側、「徳川家墓所」に行ってみました。
灯籠が立派だった
太平洋戦争の空襲で、この地に移設されたそうですが、
それでも青銅色の扉は時代を感じさせます。
この中には二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、
十二代家慶、十四代家茂の、六人の将軍が眠ってます。
ホテルを出て、午前中は打合せで都内某所に行き、
その後お昼に朔田浩美さんと合流。
今日は彼女のナビで、夕刻の飛行機の時間まで史跡探訪
まず行ったのは、
日比谷の皇居あたり
実は初めてです。皇居に来るのは!
その皇居前には日比谷公園や法務省がありますが、
このあたりがずっと長州藩邸跡だったそうです。
桜田門です
門をくぐると、さらに立派な門が
今日は時間の都合で、このあたりまで
東京の史跡はイチイチ広い。
続いて小伝馬町に行きます
ここは、江戸時代の牢獄があったところで、
吉田松陰先生の終焉の地です。
ここに投獄されている間、
高杉晋作は物心両面ともに先生を支えていました。
跡地は「伝馬町十思(じっし)公園」となっています。
萩の野山獄に行ったときも感じましたが、
やはり土地の空気感が違いますね。
明らかに、増上寺や皇居の穏やかな気持ちいい「気」は
流れていなくて、ちょっと「陰」な感じ
安政の大獄で投獄された人たちなど、多くの処刑者も入っていた獄
だけど、さすが!吉田松陰先生は別格なんですね。
公園の一番右奥に、記念の碑が立っています。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちるとも
留めおかまし大和魂」 という辞世の句が彫られています。
1859(安政6)年10月27日。
南千住にある小塚原で吉田松陰は処刑されます。
高杉晋作は10月17日藩命により江戸を発ち、
11月26日に萩に帰着したため、そのことを知りませんでした。
自分の旅行中に刑が執行されたことを知り、
気も狂わんばかりに慟哭し、仇を討つことを念じ
ついに「倒幕」の決意を固めていくのです。
続いて私たちは、北品川の御殿山に
実は、東京ではここが一番行きたかったところ!
まずこの原美術館までタクシーで来てみて
往時のイギリス公使館跡を訪ねてみようということに
ここから坂を下って、ミャンマー大使館の横を通って
権現山公園を訪ねていきました。
北品川3丁目から4丁目にかけてのこの御殿山は、
参勤交代で江戸に入る諸国の大名を迎える御殿が
立ち並んでいた所。
やがて桜が植えられ、品川の千本桜と呼ばれる名所に
イギリス公使館は、幕府がイギリスの要求を受けて
8万両の費用をかけて建設するものでした。
また花見の名所だったのに、一般人が立ち入れなくなると
庶民からは悔しがる声もあがっていたそう。
それを焼き払うというのは、痛快きわまること
そこで、引き渡しがすむ前に「焼打ち事件」を計画・実行したのが
隊長/高杉晋作(24歳)
久坂玄瑞(23歳) 白井小助(37歳)
井上聞多(28歳) 堀真五郎(25歳)
伊藤俊輔(22歳) 山尾庸三(26歳)
赤根武人(24歳) 瓜生慎蔵(21歳)
福原乙之進(26歳) 有吉熊次郎(21歳)
長嶺内蔵太(27歳) 大和弥八郎(28歳)
この13人の長州の若者たちでした。
文久2年12月12日の夜にそれは決行されました。
当時のイギリス公使館が建設されていたのは
多分、この「権現山公園」のあたりだろう、という地元の情報をゲット。
マンションが立ち並ぶ高台にある公園ですが、
まさに桜の公園です。
この事件は不問にされました。
長州藩士のしわざとわかりながら、黙殺した幕府。
その背景には、内外の多くの問題をかかえ
弱体化していく幕府の実情があったからと言われています。
高杉晋作のどの本を読んでも、焼打ち場面はいいですね。
関門海峡で攘夷戦争を行ったときと同じように、
「無謀」と思える熱さ、若さがこのサムライたちにはあります。
そしてうまく成功し、処罰もされないという高杉の運の強さに
不思議を感じるのです。
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以前より行ってみたかった世田谷の松陰神社です。
出張で昨日から東京。お天気もよくて、ついてるな
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
留めおかまし大和魂
松陰先生の像は、ちょっとかわいい表情でしたよ。
1859年(安政6年)10月27日、処刑された吉田松陰は
千住小塚原に罪人として埋められました。
高杉晋作始め松下村塾の弟子たちは、そんな先生の復権を
果たしたいと願います。
4年後にそれを実行することになりました。
場所は当時、長州藩の所有地であった世田谷若林の大夫山。
秋山香乃著『晋作 蒼き烈日』で、私の一番好きな一節です。
彼らは松陰の新墓地となる大夫山についた。
そのとたん「あっ」と伊藤(博文)が叫ぶ。
晋作には伊藤がなにを叫んだのか、聞かずともわかる気がした。
見渡せば、ここはあまりに松下村塾のある松本村に似ている。
他の者も同じことを感じたようだ。まるで松陰の霊魂を故郷へと
召還したような錯覚が、そこにいる全員の胸を揺さぶった。
晋作らは棺を新たな墓地に納めた。
往時を思うて英魂を慰せんと要す
未だ小子よく旧冤を雪ぐを能わず
墓下に回顧す、少年の日
若林村の景は猶松村
晋作は師の魂へ高らかに一詩をささげ、墓前へ白梅を供えた。
「高杉さん、なし、向こうと(小塚原)とこちらで花の色を
変えたんじゃ」実直ものの堀が素朴に首を傾げる。
「小塚原の梅はのう、先生の血で紅く染まっちょる」
「こっちは」
「いずれ紅くなる」
晋作は同志全員の顔を見渡した。
「僕は西洋列強に属国のごとく扱われちょる上海を見た。
上海が今に至るまでの歴史を鑑みるに、日本はその方角に
向かって着々と進んじょる。進めちょるんは幕府じゃ。
幕府を倒し、攘夷を行い、五大州(世界)に気概で臨まねば
我が国に明日はない」
同志に訴えると、みながそれぞれにうなずく。
「白梅は僕らの血で染まれ。先生の御霊を前に改めていう。
僕らが幕府を倒す」
フィクションかもしれませんが、小説の中のこの情景は
あまりに印象的でした。
高杉は梅の花が大好きです。作家はそれを意識してか、
遺骨を掘り起こした小塚原に紅梅を供え
大夫山の新しい墓に白梅を供えるなんて、
あまりによくできたお話
でも、私も念願かなってここに来れたわけですから、
しばしお墓の前でそんな高杉たちの姿を想像してみました。
しかし禁門の変の時に、長州征伐の幕府軍によって
この墓が壊されました。
その後、明治元年に木戸孝允が修復。
1882年、明治15年に改めてここの一帯が松陰神社となりました。
石灯籠は伊藤博文始め、多くの明治の要人たちからの寄贈です。
またお墓を壊した謝罪として、徳川家からも墓前に灯籠が
贈られました。
社務所にはお札やお守りがありますが、
私も記念に松陰先生直筆の「志」が書かれた
「志守り」を買いました。(写真中央)
志を立てて
以て万事の源と為す 吉田松陰
*大意/何事にも、志をたてることが大切である。
もうひとつ驚いたことが!
松下村塾です。
山口県萩市にある松陰神社、その中にある本物の松下村塾を
模して建設されたそうです。
神社を出て、商店街を抜けて「松陰神社前駅」に向かっていくと
こんなお店を発見
世田谷名物「松陰饅頭」です。
お土産に買って帰りました。
素朴な白あんのおまんじゅうでした。
お味もだけど、松陰先生、地域の人々に愛されてるな〜と感じました。
ニコラス精養堂 03-3421-1100
東京都世田谷区若林3-19-4
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