元治元年 1月のお話
今年は、元治元年(1864)からちょうど150年という年です。

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今年は、元治元年(1864)からちょうど150年という年です。
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4月の最後の日曜日、北部九州は豪雨
その中をぬって、防府天満宮に向かった私です。
着いた頃には、こんな青空! さすが、イベント事ではいつも晴れ女。
天満宮は、天神信仰の篤かった高杉さんもよく参詣したそうです。
で、今回の目的はこちら!
若い頃の手紙、また最晩年に書いたもの、
たいへん貴重な書をいくつか見る事ができました。
これは慶応2年、病床にあった高杉さんが書いた
とても端正な、達観した文字です。
何を考えてこの三つの言葉を選んだのでしょうか。
すごく心をうたれました。
この書展は5月6日までなのです。もしお近くでしたら、GWの期間に
ぜひお立ち寄りください。図録なども売っていますよ。
さて、もう夕方でしたので急ぎ「毛利邸」へ。
庭園と博物館があるのですが、
入り口の門、新緑をバックに額縁の絵のような・・・
もうすでに閉園でした
仕方ないので、まわりの空気を堪能。
雨上がりでしっとりした空気、新緑が清々しくて
それはそれで居心地のいい空間です。
次回、6月か7月に来たいと思っています。
なぜなら、「そうせい公様」の展示があるのです
これは必見ですよね!
天満宮の入り口、防府市まちの駅「うめてらす」では
こんなキャンペーンを行っています。
「幸せます」 これは山口県の方言ですが、もちろん
幸せです うれしいです 有り難いです という意味もあり
「○○してください」というより「○○して下さると幸せます」という
少し婉曲表現となります。
防府ではこれに「幸せが増す」という意味も加え、地域の
ブランドにして、いろんなグッズに付けているようです。
私もこのワッペンとクリアファイルを買いました。
こんど、萩に行くツアーなどの町歩きにつけていきたいと
思います。
皆様もぜひいかがでしょうか。
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今日は寒暖の差が激しい一日でしたね。
昼間は暖かく、平尾山荘の梅も満開に近いかな?と思いましたが
まだまだの様子でした。
菅原道真公が藤原時平の讒言により、九州の太宰府に流される途中
山口県の防府にも立ち寄られました。
そこで都との陸続きとしての最後の地、と涙されたこの防府の地に
防府天満宮があります。
高杉晋作は天神信仰がありました。
また、天神様といえば梅。
梅の花も大好きな高杉さんは「谷梅之助」という変名を
使いましたし、一人息子は梅之進君でした。
その高杉晋作の遺品を展示する、特別展が防府天満宮の歴史館で
5月6日まで行われるそうです。
複製ですが、菅原天神と書かれたあの旗も出ていると!
詳しくはこちら
防府天満宮にはこういう本が売っています。
昨年買いました。
これから、天満宮も梅が見頃になるでしょう。
今週末あたりは、防府も太宰府も満開では?
私はちょっと行けないので残念
これは、今日お昼の平尾山荘の白梅です。
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先週土曜日、東行庵の供養祭終了後に山口県防府市に行きました。
三田尻の御茶屋跡が7年間の改修工事を終えて
今月11月から一般公開されていると聞いたので、
それはいかなくちゃ!
昨年は車で前を通っただけ、
今回はホテルで自転車を借りて、約30分。
やはり昔の街並が残っているのはいいな〜
三田尻御茶屋は、萩藩の瀬戸内海沿岸の要衝地である三田尻に
設置された、萩藩の公館です。
藩主の参勤交代や迎賓館として使用され、萩城下と三田尻間を
結ぶ萩往還の終点として、重要な役割を果たした建物です。
昨年来た時は、この表門の扉がぴったり閉まっていました。
玄関が見えて、「本当に入れるの?」と期待でワクワク
1654年(承応3)からの長い歴史の中で、ここが一番注目された
のは、藩主・毛利敬親の時代、京都から落ちてきた七卿が滞在し、
また多くの志士たちが構内の「招賢閣(しょうけんかく)」に
集まったという史実です。
文久3年ということですから、世間では攘夷の嵐が吹きまくって
ここ長州藩でも、血の気の多い志士たちがさぞや激論をかわして
いたことでしょう。
この外観は、現存する建物の中で最も古く大きな「大観楼棟」です。
一番メインのお部屋、藩主の謁見の間です。
そして階段で2階に上がります。
すると、見晴らしのいいお部屋が現れます。
お部屋の入り口におかれている、このサインに注目です
2ヶ月間ここに滞在していた七卿と、高杉晋作が会談をしたと
書かれてあります。
改修されてきれいな畳やふすまですが、まさにこの場所でと
思うと、なんか感動しますね
こちらが南側(三田尻港の方面)の窓。
昔は樹木がなくて、港のほうがよく見えたそうです。
もちろん軍港があって、藩の軍艦などがあったわけですから。
こちら反対側に招賢閣があったといわれています。
この大観楼棟以外に、敷地には、「花月楼」という茶室があります。
安永5年(1776)この地に建設された花月楼は、様々な変遷を経て
現在は松陰神社内に移築されています。
いまここにある花月楼は天明6年国分寺に建てられ、明治21年に
ここに移築されたそうです。
いずれの茶室も、茶道に造詣が深かった7代藩主毛利重就が
建設に関わりました。
レトロなガラスがすごく感じがいいです。
お茶室の中
藩主が座られる御座、一段高くなっていますよね。
大観楼棟の縁側にある水琴窟。
本当に素晴らしい史跡でした。ぜひ一度足を運んでみてください
三田尻御茶屋「英雲荘」
山口県防府市お茶屋町10-21
電話0835-23-7276
開館時間:9:30〜16:30
大人300円 小中学生150円
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先週の「龍馬伝」で、坂本龍馬の仲介により
薩摩の旗印がついたユニオン号で武器弾薬が
下関に運ばれましたね。
それが1866年の今日、8月26日でした。
長崎の料亭で高杉と坂本が初めて出会った時に
「軍艦10隻とミニエー銃1万挺がほしい。15万両もあれば!」と
高杉が言いました。
「長州にはうなるほど金があるんじゃ〜」とも
言ってましたね
そこで私、調べてみました
以下、富成博著「維新閑話」、この本はかなり面白くておすすめです。
長州藩が多額の借金を清算して、いかに蓄財ができたかなど
以下のように説明されています。
①村田清風による藩政改革
さかのぼること1840年(天保11)から、長州は村田清風によって
藩政改革が行われる。質素倹約の実行などはもとより、藩をあげての
生産性の向上を図る。
特に産業面では、防長四白といって、「米、塩、紙、鑞」は
藩最大の特産物だった。
②撫育局(ぶいくきょく)資金
撫育局が設けられたのは1763年(宝暦13)
検地によって浮いた4万石の土地からあがる租税を基金にして
塩や鑞などの生産事業、港湾の整備による商港開発、
埋め立て工事による土地の拡張などで収益を図る。
1840年(天保11)、下関に設置した越荷方役所は
北陸航路の北前船を始め諸国の回船を相手に倉庫業、
金融業を営み、予想以上の業績をあげた。
それら藩外通商の利益はすべて別途会計であった。
③宝蔵金
不時に供えて「宝蔵」に蓄積していった資金があった。
これは、江戸麻布邸の穴蔵貯蔵金。
1620年から創設された。
献上を受けた品や廃物の換金を貯めて、いっさい手をつけず。
このことは、藩内の者でも数名しか知らなかった。
これらは機密費であるから、別途会計の終始明細は
全くわからない。藩権力を握った倒幕派が、これら巨額の資産を
運用できたことは無視できない。
グラバーから購入したミニエー銃7300挺の代価は9万2400両。
高杉が上海渡航のため藩から引き出した3000両はたちまち
使ってしまい、そのうえ3万9千両のオテントサマ丸(丙寅丸)を
独断で買ってくる。
それ以前にも長州の志士たちが尊王攘夷運動を通じて、
あるいは遊郭を密談の場にして朝廷公卿や諸藩への工作に
費やした機密費も相当な額にのぼっているはず。
ざっとそういうことらしいのですが・・・
この史実の中で、私は「撫育局」というのが気に入ったな
これはその撫育局を作った、毛利重就(もうりしげなり)公です。
防府天満宮の中にこの像はあります。
高杉が奇兵隊を作った1861年からさかのぼること100年前の
1760年代に撫育局は存在してました。
四境戦争や攘夷戦争など、将来におこる長州藩の苦難を
予想していたかのような先見性。素晴らしいお殿様
おみやげ
防府の三田尻には塩田があったそうで、防府でみつけた
塩羊羹です。
塩豆大福とか塩キャラメルなどの塩スイーツのはしり?
毛利家の家紋がついた「志ほみ羹」です。
甘さ控えめで、ちょっぴり塩味。
近くのおいしいお店
さらに、夏の防府ではおいしいハモが食べられます。
天神鱧といって、防府市観光協会も後押しして売り出し中。
西瀬戸防府の天然鱧を、防府駅を中心とした
18の加盟店がお店独自のコースで出しています。
私が行ったのは「咲果庄(さかしょう)」さん
写真の「はもおとし」が最高においしかったです。
梅ダレか酢味噌で頂きます。
あと、フーフー言いながら食べるはもしゃぶも
咲果庄 TEL0835-27-2030
山口県防府市中央町5-25 火曜休
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天満宮のお参りを終えて、今度は海のほうに向かっていくと
ちょっと古めかしく、立派なご門がみえました。
お茶屋といわれている藩の公館だったところです!
文久3年(1863)8月18日の政変で失脚した京都の七卿も
ここに滞在したそうです。またその七卿の護衛にあたった
久留米の真木和泉、肥前の宮部鼎蔵、土佐の中岡慎太郎、
福岡の中村円太などもここ、三田尻に集結しました。
昔、萩からまっすぐ南下して防府に至る道が「萩往還」と
言われていて、その終着点が三田尻港になります。
三田尻港は、幕末には軍港としてその重要性を発揮しました。
蛤御門の変や、戊辰戦争など、長州藩が上方に向かう時も
ここから軍勢を出したそう。
元治元年12月、下関で挙兵した高杉に至っては、20名からなる
決死隊を編成し三田尻港の海軍局を襲撃。そして軍艦を奪います。
ただ、今は全くその面影はありません
随分埋め立てもされたそうです。
でも今までずっと三田尻港に行ってみたい、軍港だった
あたりの空気を感じたいな〜、と思っていたので、その
念願がかないうれしい一日でありました
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今日は山口県防府市に来ました。ここは毛利家にゆかりのふかい町。
毛利邸や毛利博物館という有名観光地がありますが、
今回は時間の都合でパス。
高杉晋作は、天神様と観音様への信仰の篤い人だったそうです。
というわけで、私も防府天満宮へのお参り。
太宰府天満宮、北野天満宮と並んで、日本三大天満宮です。
なぜ菅原道真公が3カ所におまつりされているか・・・
福岡の太宰府は、もちろん道真公が左遷で流されたところ。
そして北野は道真公が亡くなられた後、都において長雨や疫病が
続き、時平や醍醐天皇まで急死するなど、これは道真公の恨みの
怨霊の仕業と恐れられました。その怨みをおさめる為に、京都
北野天満宮が建立されました。
防府には、道真公が流される途中、最後の寄港地として船から見る
陸地がここだったそうです。道真公は「この防府は、帝土を離れて
いない。(天皇のいらっしゃる都と地続きである)」と、この地に
思いをのこされたようです。
高杉晋作は、菅原道真公をたいへん信奉していて、それが天神様
信仰に結びついたと言われています。
天神様といえば「飛び梅」が連想されるくらい、梅の花は切っても
きれないもの。そして高杉がこよなく愛した花も「梅」。
変名のひとつが「谷梅之助」でしたし、一人息子も梅之進でしたね。
さて、こちらはお宮の入り口にあたるのですが・・・
石段をずっとあがって、門に入る前、左手にこんなところが!
「大専坊」と看板がかかっています。
ここは幕末には遊撃隊らの屯所となっていたところだそうです。
遊撃隊には来島又兵衛がいて、まさに京都に進発するという際に
高杉が説得に行かされた。結果的に説得はできず、遊撃隊は
その後蛤御門の変に突入し、高杉は脱藩してしまうという
あの歴史的舞台になった所ですよ!
いや〜、小説通りのやりとりがこの立派な門の
中で行われたのですね
もちろん中には入れそうにありませんでしたが、聞くところによると
この内部では、梅干しを干したりなどの作業などもされているとか
今は平和な時代です。
天満宮の中には、ほかにも色々と見所があります。
春風楼
高杉の名前と同じ「春風」がついていますが、彼より古い。
ここから防府の町並みや三田尻港から瀬戸の風景が見渡せます。
野村望東尼像
姫島から助け出され、下関の白石正一郎宅で養生しますが、
友人がいたため防府でその晩年をおくることとなります。
高杉とともに詠んだ歌の碑ともに胸像がありました。
面白きこともなき世を面白く 東行
すみなすものは心なりけり 望東尼
今は真夏なので、蝉の鳴き声が深い緑の奥からしみ出してくるような
お宮全体の印象でした。
でも、梅の頃、桜の頃、素敵なんだろうな〜と思います。
次回は梅が満開の頃に訪ねてみたいです。
防府天満宮
山口県防府市松崎町14-1
TEL 0835-237700
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