防府

元治元年 1月のお話

今年は、元治元年(1864)からちょうど150年という年です。

長州がいよいよ動き出す、そして高杉晋作の見せ場が盛り沢山の
年ですね。
この元治元年の出来事を追って、この一年はブログを書いてみようと
思います。
まずは、遊撃隊の来島又兵衛を説得に行くの巻。
これは防府天満宮です。
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天満宮に上がる参道の途中に、この大専坊があります。
1月24日、遊撃軍鎮静のための親書を来島又兵衛に渡すように
世子さまから命じられます。
来島軍が屯所としていたのが、この大専坊というところ。
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そして、この社坊の歴史的いわれもちゃんと紹介されています。
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そして、特別に拝観させて頂きました。
又兵衛&晋作がバトルをしただろう、お部屋 
「150石が奥歯に挟まっているのだろう」と言われ、
そのまま上方へ向って脱藩してしまったというあの下りです。
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しかし、激情にまかせて脱藩したのではありません。
そこは高杉の作戦。京都にいる桂小五郎や久坂玄瑞に
直接会って相談して、なんとか又兵衛の進発を止めようと
いうのが真実でありました。
この貴重な三田尻港・御舟蔵の絵図。
今の防府・三田尻には面影がほとんどありません。
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三田尻港は参勤交代、七卿落ち、高杉晋作の軍艦奪取など、
多くの出来事の舞台となったところです。
高杉はやがて上方から戻ってくるのですが、それは2月27日のこと。
このあと、脱藩の罪で野山獄に繋がれます。

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新緑の防府へ、幸せでした!

4月の最後の日曜日、北部九州は豪雨
その中をぬって、防府天満宮に向かった私です。
着いた頃には、こんな青空! さすが、イベント事ではいつも晴れ女。
天満宮は、天神信仰の篤かった高杉さんもよく参詣したそうです。

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で、今回の目的はこちら!


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若い頃の手紙、また最晩年に書いたもの、
たいへん貴重な書をいくつか見る事ができました。

これは慶応2年、病床にあった高杉さんが書いた
とても端正な、達観した文字です。
何を考えてこの三つの言葉を選んだのでしょうか。
すごく心をうたれました。

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この書展は5月6日までなのです。もしお近くでしたら、GWの期間に
ぜひお立ち寄りください。図録なども売っていますよ。

さて、もう夕方でしたので急ぎ「毛利邸」へ。
庭園と博物館があるのですが、
入り口の門、新緑をバックに額縁の絵のような・・・

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もうすでに閉園でした


仕方ないので、まわりの空気を堪能。
雨上がりでしっとりした空気、新緑が清々しくて
それはそれで居心地のいい空間です。

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次回、6月か7月に来たいと思っています。
なぜなら、「そうせい公様」の展示があるのです
これは必見ですよね!


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天満宮の入り口、防府市まちの駅「うめてらす」では
こんなキャンペーンを行っています。
「幸せます」 これは山口県の方言ですが、もちろん
幸せです うれしいです  有り難いです という意味もあり
「○○してください」というより「○○して下さると幸せます」という
少し婉曲表現となります。

防府ではこれに「幸せが増す」という意味も加え、地域の
ブランドにして、いろんなグッズに付けているようです。
私もこのワッペンとクリアファイルを買いました。
こんど、萩に行くツアーなどの町歩きにつけていきたいと
思います。
皆様もぜひいかがでしょうか。

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天神様と高杉晋作

今日は寒暖の差が激しい一日でしたね。
昼間は暖かく、平尾山荘の梅も満開に近いかな?と思いましたが
まだまだの様子でした。


菅原道真公が藤原時平の讒言により、九州の太宰府に流される途中
山口県の防府にも立ち寄られました。
そこで都との陸続きとしての最後の地、と涙されたこの防府の地に
防府天満宮があります。


高杉晋作は天神信仰がありました。
また、天神様といえば梅。
梅の花も大好きな高杉さんは「谷梅之助」という変名を
使いましたし、一人息子は梅之進君でした。


その高杉晋作の遺品を展示する、特別展が防府天満宮の歴史館で
5月6日まで行われるそうです。
複製ですが、菅原天神と書かれたあの旗も出ていると!
   詳しくはこちら

歴史館の展示

防府天満宮にはこういう本が売っています。
昨年買いました。


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これから、天満宮も梅が見頃になるでしょう。
今週末あたりは、防府も太宰府も満開では?
私はちょっと行けないので残念

これは、今日お昼の平尾山荘の白梅です。

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三田尻御茶屋「英雲荘」が公開されています

先週土曜日、東行庵の供養祭終了後に山口県防府市に行きました。
三田尻の御茶屋跡が7年間の改修工事を終えて
今月11月から一般公開されていると聞いたので、
それはいかなくちゃ!

昨年は車で前を通っただけ、
今回はホテルで自転車を借りて、約30分。

やはり昔の街並が残っているのはいいな〜


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三田尻御茶屋は、萩藩の瀬戸内海沿岸の要衝地である三田尻に
設置された、萩藩の公館です。

藩主の参勤交代や迎賓館として使用され、萩城下と三田尻間を
結ぶ萩往還の終点として、重要な役割を果たした建物です。

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昨年来た時は、この表門の扉がぴったり閉まっていました。

玄関が見えて、「本当に入れるの?」と期待でワクワク


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1654年(承応3)からの長い歴史の中で、ここが一番注目された
のは、藩主・毛利敬親の時代、京都から落ちてきた七卿が滞在し、
また多くの志士たちが構内の「招賢閣(しょうけんかく)」に
集まったという史実です。
文久3年ということですから、世間では攘夷の嵐が吹きまくって
ここ長州藩でも、血の気の多い志士たちがさぞや激論をかわして
いたことでしょう。

この外観は、現存する建物の中で最も古く大きな「大観楼棟」です。

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一番メインのお部屋、藩主の謁見の間です。


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そして階段で2階に上がります。


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すると、見晴らしのいいお部屋が現れます。
お部屋の入り口におかれている、このサインに注目です

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2ヶ月間ここに滞在していた七卿と、高杉晋作が会談をしたと
書かれてあります。
改修されてきれいな畳やふすまですが、まさにこの場所でと
思うと、なんか感動しますね

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こちらが南側(三田尻港の方面)の窓。
昔は樹木がなくて、港のほうがよく見えたそうです。
もちろん軍港があって、藩の軍艦などがあったわけですから。


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こちら反対側に招賢閣があったといわれています。


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この大観楼棟以外に、敷地には、「花月楼」という茶室があります。

安永5年(1776)この地に建設された花月楼は、様々な変遷を経て
現在は松陰神社内に移築されています。
いまここにある花月楼は天明6年国分寺に建てられ、明治21年に
ここに移築されたそうです。

いずれの茶室も、茶道に造詣が深かった7代藩主毛利重就が
建設に関わりました。

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レトロなガラスがすごく感じがいいです。


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お茶室の中
藩主が座られる御座、一段高くなっていますよね。


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大観楼棟の縁側にある水琴窟。


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本当に素晴らしい史跡でした。ぜひ一度足を運んでみてください


三田尻御茶屋「英雲荘」

 山口県防府市お茶屋町10-21
  電話0835-23-7276

 開館時間:9:30〜16:30 
  大人300円 小中学生150円

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長州藩にうなるほどお金があったワケ

先週の「龍馬伝」で、坂本龍馬の仲介により
薩摩の旗印がついたユニオン号で武器弾薬が
下関に運ばれましたね。
それが1866年の今日、8月26日でした。

長崎の料亭で高杉と坂本が初めて出会った時に
「軍艦10隻とミニエー銃1万挺がほしい。15万両もあれば!」と
高杉が言いました。
「長州にはうなるほど金があるんじゃ〜」とも
言ってましたね

そこで私、調べてみました


以下、富成博著「維新閑話」、この本はかなり面白くておすすめです。
長州藩が多額の借金を清算して、いかに蓄財ができたかなど
以下のように説明されています。


①村田清風による藩政改革

さかのぼること1840年(天保11)から、長州は村田清風によって
藩政改革が行われる。質素倹約の実行などはもとより、藩をあげての
生産性の向上を図る。
特に産業面では、防長四白といって、「米、塩、紙、鑞」は
藩最大の特産物だった。


②撫育局(ぶいくきょく)資金

撫育局が設けられたのは1763年(宝暦13)
検地によって浮いた4万石の土地からあがる租税を基金にして
塩や鑞などの生産事業、港湾の整備による商港開発、
埋め立て工事による土地の拡張などで収益を図る。
1840年(天保11)、下関に設置した越荷方役所は
北陸航路の北前船を始め諸国の回船を相手に倉庫業、
金融業を営み、予想以上の業績をあげた。
それら藩外通商の利益はすべて別途会計であった。


③宝蔵金

不時に供えて「宝蔵」に蓄積していった資金があった。
これは、江戸麻布邸の穴蔵貯蔵金。
1620年から創設された。
献上を受けた品や廃物の換金を貯めて、いっさい手をつけず。
このことは、藩内の者でも数名しか知らなかった。

 これらは機密費であるから、別途会計の終始明細は
全くわからない。藩権力を握った倒幕派が、これら巨額の資産を
運用できたことは無視できない。

グラバーから購入したミニエー銃7300挺の代価は9万2400両。
高杉が上海渡航のため藩から引き出した3000両はたちまち
使ってしまい、そのうえ3万9千両のオテントサマ丸(丙寅丸)を
独断で買ってくる。
それ以前にも長州の志士たちが尊王攘夷運動を通じて、
あるいは遊郭を密談の場にして朝廷公卿や諸藩への工作に
費やした機密費も相当な額にのぼっているはず。

ざっとそういうことらしいのですが・・・
この史実の中で、私は「撫育局」というのが気に入ったな


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これはその撫育局を作った、毛利重就(もうりしげなり)公です。
防府天満宮の中にこの像はあります。
高杉が奇兵隊を作った1861年からさかのぼること100年前の
1760年代に撫育局は存在してました。
四境戦争や攘夷戦争など、将来におこる長州藩の苦難を
予想していたかのような先見性。素晴らしいお殿様


 
 おみやげ

防府の三田尻には塩田があったそうで、防府でみつけた
塩羊羹です。
塩豆大福とか塩キャラメルなどの塩スイーツのはしり?
毛利家の家紋がついた「志ほみ羹」です。
甘さ控えめで、ちょっぴり塩味。


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 近くのおいしいお店


さらに、夏の防府ではおいしいハモが食べられます。
天神鱧といって、防府市観光協会も後押しして売り出し中。
西瀬戸防府の天然鱧を、防府駅を中心とした
18の加盟店がお店独自のコースで出しています。
私が行ったのは「咲果庄(さかしょう)」さん
写真の「はもおとし」が最高においしかったです。
梅ダレか酢味噌で頂きます。
あと、フーフー言いながら食べるはもしゃぶも

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咲果庄  TEL0835-27-2030
 山口県防府市中央町5-25 火曜休

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防府その2/萩往還から三田尻港へ

天満宮のお参りを終えて、今度は海のほうに向かっていくと


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ちょっと古めかしく、立派なご門がみえました。
お茶屋といわれている藩の公館だったところです!
文久3年(1863)8月18日の政変で失脚した京都の七卿も
ここに滞在したそうです。またその七卿の護衛にあたった
久留米の真木和泉、肥前の宮部鼎蔵、土佐の中岡慎太郎、
福岡の中村円太などもここ、三田尻に集結しました。


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昔、萩からまっすぐ南下して防府に至る道が「萩往還」と
言われていて、その終着点が三田尻港になります。
三田尻港は、幕末には軍港としてその重要性を発揮しました。
蛤御門の変や、戊辰戦争など、長州藩が上方に向かう時も
ここから軍勢を出したそう。
元治元年12月、下関で挙兵した高杉に至っては、20名からなる
決死隊を編成し三田尻港の海軍局を襲撃。そして軍艦を奪います。

ただ、今は全くその面影はありません
随分埋め立てもされたそうです。

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でも今までずっと三田尻港に行ってみたい、軍港だった
あたりの空気を感じたいな〜、と思っていたので、その
念願がかないうれしい一日でありました

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高杉と天神様/防府天満宮

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今日は山口県防府市に来ました。ここは毛利家にゆかりのふかい町。
毛利邸や毛利博物館という有名観光地がありますが、
今回は時間の都合でパス。

高杉晋作は、天神様と観音様への信仰の篤い人だったそうです。
というわけで、私も防府天満宮へのお参り。


太宰府天満宮、北野天満宮と並んで、日本三大天満宮です。
なぜ菅原道真公が3カ所におまつりされているか・・・
福岡の太宰府は、もちろん道真公が左遷で流されたところ。
そして北野は道真公が亡くなられた後、都において長雨や疫病が
続き、時平や醍醐天皇まで急死するなど、これは道真公の恨みの
怨霊の仕業と恐れられました。その怨みをおさめる為に、京都
北野天満宮が建立されました。
防府には、道真公が流される途中、最後の寄港地として船から見る
陸地がここだったそうです。道真公は「この防府は、帝土を離れて
いない。(天皇のいらっしゃる都と地続きである)」と、この地に
思いをのこされたようです。

高杉晋作は、菅原道真公をたいへん信奉していて、それが天神様
信仰に結びついたと言われています。
天神様といえば「飛び梅」が連想されるくらい、梅の花は切っても
きれないもの。そして高杉がこよなく愛した花も「梅」。
変名のひとつが「谷梅之助」でしたし、一人息子も梅之進でしたね。


さて、こちらはお宮の入り口にあたるのですが・・・


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石段をずっとあがって、門に入る前、左手にこんなところが!

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「大専坊」と看板がかかっています。
ここは幕末には遊撃隊らの屯所となっていたところだそうです。
遊撃隊には来島又兵衛がいて、まさに京都に進発するという際に
高杉が説得に行かされた。結果的に説得はできず、遊撃隊は
その後蛤御門の変に突入し、高杉は脱藩してしまうという
あの歴史的舞台になった所ですよ!
いや〜、小説通りのやりとりがこの立派な門の
中で行われたのですね
もちろん中には入れそうにありませんでしたが、聞くところによると
この内部では、梅干しを干したりなどの作業などもされているとか
今は平和な時代です。


天満宮の中には、ほかにも色々と見所があります。

春風楼
高杉の名前と同じ「春風」がついていますが、彼より古い。
ここから防府の町並みや三田尻港から瀬戸の風景が見渡せます。


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野村望東尼像
姫島から助け出され、下関の白石正一郎宅で養生しますが、
友人がいたため防府でその晩年をおくることとなります。
高杉とともに詠んだ歌の碑ともに胸像がありました。

面白きこともなき世を面白く   東行
すみなすものは心なりけり    望東尼

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今は真夏なので、蝉の鳴き声が深い緑の奥からしみ出してくるような
お宮全体の印象でした。
でも、梅の頃、桜の頃、素敵なんだろうな〜と思います。
次回は梅が満開の頃に訪ねてみたいです。


防府天満宮
 山口県防府市松崎町14-1
   TEL 0835-237700

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