平成31年は亥年
あけましておめでとうございます。


「至誠」
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ずーっと気になっていましたが、一度も訪ねたことのない
萩の円政寺、そして菊屋横町の菊屋家に行く事ができました。
毛利氏よりもっと古い大内氏の祈願寺だったそうです。真言宗のお寺。
十二支の彫刻が施されている金比羅社が特徴です。
このお堂の正面、天井近くにありました
想像していたよりずっと大きい。そして色もそこそこ残っていましたね。
そして、そのお堂の裏をまわってみますと。。。
キレイでした! 晋作君と俊輔君が幼い頃に遊んだ木馬
清々しい旅のスタートです。
お昼を食べて、周布政之助さんと久坂玄瑞こと実甫(じっぽ)ちゃんに
萩の町をご案内してもらいます。
色々な商いをされていた菊屋家。今もご当主が住まわれるお宅と
一般見学ができる昔のたたずまいの建物。この写真右側ずっと
写っているすべてが菊屋さんです。
こういう入り口から中に入っていきます。
まるでドラマのワンシーンのようですね〜。
お庭も広くて素晴らしい。お殿様をお迎えしたお部屋から見えます。
二人の手前にある平たい石が、「籠置き石」です。
籠に乗ったお殿様がここで降りられる、というわけ。
続いて、特別のおはからいで、このお屋敷の中にある
「伊藤公滞在のためのお家とお庭」を拝見させて頂きました。
本当は年に2回しか公開されないお庭だそうです。
感激
伊藤さんは菊屋家のこのお家がとても気に入っていたそうです。
ここだと、確かに人の目を気にせずゆっくりできそう・・・
いつもの旅と違って、今日は台風の中をあえて出かけて行き、
台風のせいか、観光客も少なくて静かなひとときを過ごすことが
できました。ひさしぶりにのんびりした旅。
先生と志士達に、イベントの成功祈願をさせてもらいました。
12月にたくさんのいい出会いがありますように
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6月16日(土)「2017年晋作伝プロジェクト・萩ツアー」に
行ってきました。
大雨洪水注意報がでた日でしたが、幸いにも観光の間は
それほど雨にも降られず・・・
アジサイがキレイでした。
念願だった、高杉さんのチョンマゲ姿の像を見ました。
ガイドをしてくださった、周布政之助、久坂玄瑞、入江九一の
お三方と、オールスターズのお宝ショットです。
高杉さんと伊藤さんが幼い頃一緒に遊んだという円政寺。
このブログを書くようになって、初めて行った「高杉晋作旧宅」
自分でも意外
門をくぐって入ったら・・・
ここでも伊勢谷晋作大活躍!
小忠太とミチ、ご両親様!
お二人がいてくれて、晋作さんが生まれました。
どうもありがとう
産湯を汲んだ井戸の横に、雨に濡れてカタバミがしっとりと。
お庭に色々発見がありまして・・・
このツアーでは、松陰神社や至誠館、萩博物館にも行きました。
しっとりとした雨の町、改めて松下村塾の人々の息づかいにも触れ、
バスの中から、マサさんも参加した「台場工事」の女台場の跡を
見たり、再発見もたくさんでした。
一日ご案内くださったサムライ姿の皆様にも心から感謝です
雨の中、着物を濡らしながら、暖かい笑顔で一生懸命頑張って
くださいました。本当にお疲れさまでした。
また改めてゆっくり来ますね。
お土産は、昨年買いそびれて後悔した留魂録(複製)です。
口語訳がちゃんとついててラッキー。原本とあわせながら
松陰先生の思いに触れてみたいです。
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元治元年、京都進発をする来島又兵衛の説得に失敗した高杉は
そのまま自分が脱藩。
京都で桂小五郎らに説得されて萩に帰ってきた彼を待っていたのは
野山獄入牢でした。
3月29日の深夜のことでした。
詳しくはこちらのブログをご覧ください
獄中にあってたくさんの詩を書いていますが、
今回ご紹介したいのはこちら!
漢字の一部が変換不可なので、申し訳ありませんが
写真のまま掲載させていただきます。
この詩は、同じく讒言で九州に流された菅原道真公を
偲んで書いたものです。
この詩の中にある「霊魂は尚存す天拝の峰」は、福岡県筑紫野市
天拝山です。ここの山頂には高杉晋作のこの歌碑があるんですよ。
太宰府に流された道真公は、都の方角を向く天拝山に登って
自分の罪が許されて早く都に戻れること、
また国家安泰を祈願されていたそうです。
ついでにもうひとつ。私はこの獄中詩が好きです。
断腸は冤を恨むにあらず
涕涙は命を惜しむにあらず
外患は我君に迫るに
此の邦政を如何せん
東行さんの怒りも涙も、それはいつも個人のものではなく、
国を思い、藩主を思う、損得のない気持ちからというのが
胸をうちます。
東行詩集
この書籍は、下関の東行庵発行です。
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文久三年(1863)、3月15日に京都の学習院用掛を解かれ
10年の暇をもらった高杉晋作。
桂小五郎、周布政之助と防長割拠論(長州だけ独立し、
列強と肩を並べる)をくり返した高杉晋作に対し、
「それは正論だが、10年かかるだろう」といわれ
「ではその時がくるまでお暇を賜りたい」と願いでて
頭を剃ったのです。
周布政之助は、甲冑を贈りました。
晋作は兜の裏に「予まさに東行せんとす。周布政之助贈るにこの
甲冑を以てす。他日攘夷の戦あればこれを着して討ち死にせん。
高杉東行春風」と書き入れたそうです。
そして周布に五言絶句を返しました。
十歳雲游志 十歳雲游の志
動揺興又沈 動揺興って又沈む
比君経国業 君が経国の業に比ぶれば
工是一般心 工(たくみ)は是れ一般の心
十年の暇をもらって自由に働こうと思いながら
気持ちはしきりに動揺してやみません
国を治める貴君の事業に比ぶれば
私の企みなど並の仕事でしかないのに
ここで企みというのは、実は「江戸で事をおこす」こと
だったようです。だから東行なんですね。
しかし、その思惑はすっかりはずれました。
仲間たちは皆京都に向いていて、江戸を見る者は誰もいない。
やけっぱちになって坊主姿で酒浸りになりましたが、
でも誰も動かない。
そうなると帰国を決心するしかありませんでした。
われ去れば人も去るかと思ひしに
人々ぞなき人の世の中
そして3月26日京都をでて大坂から船に乗ります。
面白い詩を作っています。
梅や桜の樹や花を 遠くしのびて海東(江戸)の
なじみの酒楼に心馳せ
目に映りゆく風光の 何ぞうらめしこれよりは
いずこへ行くも旅の空
萩に帰った晋作は、おまささんと二人で団子岩の草庵に
住む事になります。
松陰先生の生まれたところからすぐ近く、萩のお城下も見下ろせる
風光明媚なところです。
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下関の地元欄に載っていた今朝の新聞です。
幕末、長州の人材を輩出した藩校の明倫館。
松陰先生もここで教鞭をとっていましたし、今なお松陰先生の
ことばというのを明倫小学校の児童たちは毎日唱えているそうです。
明倫小学校を移設し、この敷地内に当時の明倫館を復元しようと
いう検討会がおこるそうで、それは素晴らしいことですね。
今もこのようなたたずまいの小学校。
今に残る、藩校の正門です。
こちらは山口市の博物館にある明倫館の当時の模型。
こんなカタチに復元されたらすごいですね
「明治維新150年」の2018年までに完成できたら素晴らしい
先日の防府の御茶屋はじめ、山口県内で江戸時代の復元建造物が
増えていくのは、とてもうれしいです。
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なんてったって、松下村塾です。
大体、山口県の子供は必ず遠足で訪れる場所です。
この「松下村塾」という字は難しいですね。
なかなか読めないと思います。
小さな建物ですが、オープンになっているので中がのぞけます。
先生を中心に、門下生たちの写真が並んでいます。
といっても、一番上の右端は木戸孝允ですが、彼は弟子では
なかったですね。 でも、塾生の面倒をみた兄貴という位置
づけなんでしょうか。
建物の右側に廻ってみると、講義をしていたお部屋が見れます。
八畳の広さしかないのですが、ここで熱い講義が行われた。
例えば、松田輝男氏(史都萩を愛する会会長)の言葉によると
「松陰の講義は、熱気に溢れ、忠臣・義士を説く時は涙を流し
逆賊を論ずる時は悲憤慷慨し、その熱烈さに塾生は感奮興起、
あるいは悲憤の涙にむせぶ有様だったという。」
さてこの塾舍の奥に、先生の実家である「杉家」旧宅があります。
これはちょっと感動でした
玄関のあがり口です。
小説の中によく出てきますよね。先生が家に帰り着くと、
ここに腰掛けてわらじを脱ぎ、足を洗ってもらったという
ところでしょうね。
そして、これが初期の松下村塾。
先生は幽囚の身であったということで、この中に居り、
その前に弟子達が外で講義を受けました。
その後弟子が増えて、段々手狭になったということで、
安政5年の3月に、冒頭の松下村塾の塾舎に移ったようです。
安政3年(1856)3月、杉家の幽囚室で講義を開始。
6月、久坂玄瑞が入門
11月、吉田稔麿が入門
安政4年(1857)9月、高杉晋作が入門
安政5年(1858)7月、入江九一が入門
以上、「松下村塾の四天王」のみですが・・・
ちなみに、先生が指導した塾生としては、92名の存在が
明らかにされているそうです。
さて、吉田松陰先生は安政6年10月25日に死罪を宣告され
処刑されたのは27日。そこで、わずか一日で塾生らへの遺言書
「留魂録」を書き残します。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも
留めおかまし大和魂
二十一回猛士
という句で始まる、この留魂録ですが
幕吏の取り調べの経過から、安政の大獄で捕えられた
他の志士たちの消息、そして自分の死生観などを語り
全部で16の章からなります。
私は、郷土の作家、古川薫氏の『吉田松陰 留魂録』を
読みました。これは全部訳注が載っています。
おすすめですので、ぜひ読んでみてください。
その本の中で、驚いたのは、先生が同じものを2冊書き
1冊は同じ牢にいた牢名主に預けたという事実。
小伝馬町の牢から三宅島に流された、沼崎吉五郎という
人物が長年その留魂録を守り抜き、明治9年になって
入江九一の実弟の野村靖のもとに現れました。
「私は長藩の烈士吉田先生の同獄囚沼崎吉五郎という
者です」と言っていきなり留魂録を差し出したといいます。
出獄後、「長州人にこれを渡せ」という松陰の依頼を実行
できるまでに、17年がたっていたのです
当然、もう1冊は江戸にいた門下生・飯田正伯の手に渡り
萩の高杉晋作、久坂玄瑞、久保清太郎の宛名で送り届け
られました。門下生たちは「留魂録」をひそかに回覧し
それを書き写し、今では4種類の写本が残っているそうです。
しかし、そのオリジナルはなぜか紛失してしまい、
今本物の「留魂録」が見られるのは沼崎さんが死守してきた
おかげらしいです。
そして、それは現在、松陰神社の敷地内にある「至誠館」で
見ることができます。必見ですね。
この至誠館は、この留魂録ひとつのためにある、といっても
過言でない施設でした。本当に感動しました。
これが松陰先生の遺志として、弟子達の心の隅々に
植え付けられたもの。それが倒幕、維新の原動力になった
のですね。
留魂録の最後に書いた辞世の中で、これ、切ないっ
呼び出しの声まつ外に今の世に
待つべき事のなかりけるかな
一気に書き上げた翌日の10月27日、
江戸小伝馬町の刑場で波乱に満ちた30歳の生涯を
終えた松陰先生。
死そのものが、最後の教訓として弟子達を奮い立たせたと
古川氏は締めくくっています。
余談ですが、留魂録とともに萩の家族にあてて書いた遺書。
その中の句も、しみじみと切なく感無量になります。
「親思ふこころにまさる親心
けふの音づれ何ときくらん」 寅二郎
生涯にわたり、国家に背くような大それたことを
していた松陰先生ですが、杉家の家族は皆あたたかく、
一番の理解者でした。その家族に対して「この遺書を
どう思うだろうか」と心を痛めている先生の悲痛な気持ちが
伝わります。
「身はたとひ・・・」という勇ましい辞世の句と比較すると
まるで別の心情ですね。
27日はもうすぐですね。没後152年。
改めて松陰先生の祥月命日にはご冥福を祈りたいと思います。
長い長いブログになってしまいました。
最後まで読んでくださってありがとうございます
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今月はなぜ松陰先生月間を組んでいるかと言いますと、
10月27日が祥月命日であるからです。
中国自動車道、美祢東インターから大田江堂までつながって
下関から萩に行くのがとても近くなりました。
秋はドライブ日和ですね。
絵堂インターを降りると、途中から昔の街道「萩往還」をのぼって
萩に入ることになります。萩往還とは萩から真南の防府に向かう道で
幕末には高杉晋作始め多くの藩士たちも頻繁に行き来しました。
おぉ〜 実はここ、初めて
今まで萩に行くのは、山陰側の191号線しか通ったことが
ありませんでしたから。
幕末、長州藩士たちの群像。 一気にあの時代にタイムトリップ
するような感じがします。
左から 山県有朋、木戸孝允、伊藤博文
品川弥二郎、山田顕義
そして 高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞 です
そして、その先に松陰先生の記念館があるのです。
中に入って、どーーんと、松下村塾を再現した風景が
ちょっと見入ってしまいました。結構、リアルさに感動。
(本当は私、人形がダメなんですけど・・・)
高杉晋作と久坂玄瑞は、松下村塾の「双璧」として知られていますね。
先生は、久坂のことを「防長年少第一流の才気ある男」、
「実甫(玄瑞)の才は縦横無碍なり」などと絶賛しました。
また高杉のことは「新知の暢夫(晋作)、識見気魄(きはく)、他人
及ぶなし」と高く評価しています。 当初から互いを競わせ、猛勉強
させて実力を蓄えさせようとしていた先生。
その上で、「暢夫の識を以て、実甫の才を行ふ」といい、二人が力を
合わせれば不可能なことは何もないと述べています。
そして先生は、晋作に唯一無二の玄瑞を決して失うことのないようと
忠告し、「往け暢夫」と強く励まして江戸へ送り出していたりします。
そういうように、先生はほかの塾生にも、旅立つ際にはそれぞれに
見合った激励文を送っています。
余談ですが、維新後、陸軍総大将、内閣総理大臣にまでなった
山県有朋も、吉田松陰先生のことを語る時は、必ず
「松陰先生 門下生 山県有朋」と述べていたとか
安政6年10月27日、江戸の伝馬町獄から出され小塚原の刑場で
30歳という若さで斬刑に処された松陰先生。
「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも
留めおかまし大和魂」という辞世の歌を残しました。
身体は滅びましたが、弟子達の一人一人に国を思う志を植え付け
それが倒幕の原動力になるのです。
萩往還の途中にあるこの記念館から、車でさらに北上して
萩市内に入ります。
この続きは、また後日、「松陰神社」をご案内します。
この松陰記念館は、道の駅と併設されているのです。
なかなか商魂たくましいところでもありました。
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萩市に残る「明倫館」です。
高杉晋作もここに通ったという、藩校だったところです。
今は小学校。町に大切に保存されているのは素晴らしいです。
しかし、素晴らしいのは建造物だけではありません。
この明倫館は、吉田松陰先生も山鹿流兵学師範として
教鞭をとったことがあります。
その「松陰先生のことば」を教育に取入れているというのが
この学校の素晴らしいところです。
小学校1年生から6年生まで、学期ごとにことばを暗唱
するんですって! 6年間で18の言葉を頭に、心に
刻み込んでいくんですね。
明倫小学校卒の人はうらやましいですね
この本の存在は以前から知っていましたが、ついにゲット
この中で私が好きな言葉はこれ!
朋友あい交わるは
善導をもって
忠告すること
固(もと)よりなり
意味は、 友達と交わるには、真心をもって
善に導くようにすすめることは、
言うまでもないことである。
これを2年生の3学期に覚えるそうです
この精神を大人になっても忘れなければ、人をおとしいれたり
だましたり、嫉妬心のもとを少しは押さえられるのかも。
この本の中に「子供たちと松陰先生のことば」というページが
ありますが、その中で2年生が書いた文章です。
「ろうしょうをして」 2年 柏木晴妃ちゃん
朝から、みんなで声をあわせたら、きもちがいいです。
しょういん先生のことばは、むずかしいけど、毎日言うので
しぜんに言えるようになりました。
大きな声で言うように気をつけて、言っています。
みんなに声をあわせるように気をつけていいます。
しょういん先生のことばの中にいみがあると、わかりました。
これが6年生になると、
松陰先生の言葉は「自分のたっている場所だけでなく、もっと
大きな視野を持って生きていこう」という私たちの応援であり、
はげましの言葉なのです。
今では肖像画でしか会うことのできない松陰先生ですが、その
言葉は、私が苦労してやりとげたい事をあきらめてしまいそうに
なった時、「どんな事があっても夢をあきらめてはいけないよ」と
私をはげまし続けてくれています。
という文章になっています
高杉晋作はじめ弟子たち一人一人の魂に、その「志」を吹き込んだ
松陰先生。そしてこの21世紀の子供たちにも「志」を植え付けて
いる松陰先生! すごすぎです。
明倫館の模型 *山口市の博物館にあります。
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