大田・絵堂

絵堂の戦い、始まる

今日は1月7日。七草がゆを食べて、「あ〜もう7日か」と
ちょっと驚きです。早いな、このままいくと今年もあっという間
まだ早いか、そんなこと言うの!

元治元年12月15日に、功山寺決起をして藩の俗論派政府との
戦いを始めた高杉晋作ですが、その後は、戦争のための金策や
山口で幽閉されている井上聞多の救出などと画策していました。

明けて元治2年(本当は慶応元年だけど、長州藩には慶応の
年号は存在しない)、1月7日に絵堂の戦いが始まります。

下関で反旗を翻した高杉晋作らを鎮圧しようと、萩藩政府軍が
南下して、山口県美東町の絵堂で布陣しました。

諸隊に「武器を返上して、諸隊を解散するように」と下された命に、
その時の奇兵隊軍監・山県狂介が「ちょっと時間がほしい」と伝えます。
政府軍に油断させておいて、諸隊が奇襲攻撃をしたのが絵堂の開戦です。


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功山寺決起をした1ヶ月前は、高杉に追従する諸隊はなく、
伊藤俊輔とともに80人で行なった回天義挙。
ところが、下関を占領し、三田尻から軍艦を奪い、民衆の
支持を得た高杉に、諸隊は「勝算あり」とみたのでしょう。


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正月14日、政府軍は大田の「金麗社」を本陣とする諸隊に
一斉攻撃をかけます。


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大田・絵堂地区というのはそれほど広くないエリアですが、
この地図を拡大して見てください。


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下関にいた高杉晋作が参戦するのは1月16日の赤村からでした。

すでに退却していた政府軍に対して、高杉の猛烈な指揮で
大勝利を収めます。


結局停戦に至ったのは、月もあけて2月2日でした。

この戦いで高杉晋作の本領極まれり、という話があります。
萩城下から世子が出陣するのでは、という噂が流れた時に
井上聞多は「君主に弓を引くことはできない。」と躊躇しますが
高杉は「君側の奸を除くために戦う」と断固言いのけたそう
いざとなれば、長州藩はつぶれても藩主父子を背負って朝鮮に逃げる、
と言っていた高杉晋作です。
忠義に対していつの時もブレない、そんな高杉晋作の生真面目なところは
やはり魅力的ですね

大田絵堂

 中国自動車道・美祢ICから美東町大田まで車で40分くらい。
 美東町観光課 0839-62-0343


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秋分の日に大田・絵堂/維新発祥の地

今日は涼しい、本当に秋らしい一日でした。
下関でお墓参りをすませ、その足で大田・絵堂へ

高速に乗ると、下関から約1時間。
美東(みとう)町の「道の駅みとう」を目指します。
このあたりが古戦場となった「大田・絵堂」の地。
あまり前知識なく行ったけど、かえって驚きの連続
あたりは、コスモスが咲いててのんびりした山間の町。
かつて激しい戦いがあり、「維新発祥の地」ともいえる、
そんな雰囲気は皆無です

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ここは「金麗社」 山県狂介らが屯所とした神社で、
この中で高杉晋作・伊藤博文らと軍議が開かれました。

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上の写真で見るように、お社の入り口には1対の石灯籠があります。


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四境戦争のクライマックス「小倉戦争」で勝利した戦利品として
小倉の延命寺からもってきてここに設置したそうです

幕府に忠実な小倉藩主小笠原家が庇護した延命寺。
境内には東照宮(徳川家康)まで祀られていたそう。
なので、それを奪ってこんな遠くまで運ぶというのは
長州藩にとって、たいへん意味があることのようです。


近くによってみると、文字が彫られています。
  元治四年丁卯秋七月立 奇兵隊 

元治は元年しかなく、次の年は「慶応」に改まっているのですが
長州藩には慶応という年号は存在しません。
元治元年7月には長州藩が京都に攻め込み禁門の変が起きたりして
幕府にとって「縁起の悪い年」ということでした。
しかし長州藩にとって慶応は「将軍慶喜に応じる」という意味にとれ
逆に縁起が悪い
なので、この灯籠には慶応三年と書くべきところ、
元治四年と書かれているそうです。

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話を大田・絵堂の戦いにもどして


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元治元年からの高杉晋作の人生は激しく動きます。
脱藩 → 野山獄 → 4カ国連合艦隊との講和談判
→ 九州潜伏(平尾山荘)→ そして功山寺決起が12月15日。
功山寺決起の時は遊撃隊と力士隊のみ80人の部隊でした。
一方、当時の奇兵隊軍監の山県狂介らは御楯隊などの諸隊と
ともに美祢郡伊佐に進駐していました。

これに対して萩の政府軍は、粟屋帯刀の前軍が絵堂へ進み
ここに長州藩内の争い「大田・絵堂の戦い」がおこります。
それは明けて元治2年1月7日のことでした。
雪深く寒い地域と考えると、本当になんともいえない思いです。


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この1月7と8日が絵堂での戦い
10日は、長登・川上・大木津
11日は 長登
14日は 呑水
16日は 赤村


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10日間に渡る戦いの末、諸隊と萩政府とは休戦に及びます。
1月19日には山県以下の諸隊は大田から山口へ転陣。
山口・三田尻方面の制圧が必要という理由でした。

この後、長州の軍制は大村益次郎によって大改革が行われ、
諸隊は改めて藩の正規軍に編入されます。
それにより、元治三年の四境戦争で完全に幕府を破る
輝かしい長州軍になりました。


大田・絵堂の戦いは、改革派が俗論派という割れていた長州藩を
危機一髪で正道に戻し、それがそのまま倒幕から明治維新に
繋がったという歴史的意義がありました。


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高杉晋作、山県狂介、伊藤博文らが軍議を行った金麗社の境内。
当時の面影そのままのようです。
またここには、この戦いで亡くなった17名の慰霊碑もあります。


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