激戦の地、田原坂/切なすぎる薩摩軍
高杉さんとは関係ありませんが、
このブログでぜひご紹介したい場所でした。
維新の三大革命家の一人、と司馬遼太郎先生が讃える
西郷隆盛さん。(あと二人は高杉晋作、坂本龍馬)
西南戦争の激戦地、熊本の田原坂に行ってきました。
西郷隆盛率いる薩摩軍と、明治新政府の官軍との戦場跡です。
弾痕の家(復元されたもの)、それに資料館です。
この地は、ふもとの豊岡眼鏡橋からの標高差わずか80m。
一の坂、二の坂、三の坂という曲がりくねった道が続きます。
そしてこの道だけが唯一大砲を曳いて通れる道幅があり、
この道を越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へ進めません。
また丘の上に陣を張る薩摩軍にとっては生死を制する道でした。
資料館の中はこんな感じです。
田原坂の戦いは3月4〜20日までの長い激戦でした。
17日間の戦いで消費した弾薬は1日30万発。
これはすごい数だそうで、両軍ともその弾薬補給には困ったとか。
とくに薩摩軍は前線で鍋釜に鉛を溶かして弾薬を作ったり、
農民に官軍の撃った弾を拾わせたりして凌いだという話が残っています。
戦いの激しさを伝える展示品が多くあります。
官軍側の陸軍大将は長州の山県有朋。
官軍の兵士たちはこのようなスタイル。
着てる物もいいけど、特にどの階級の兵士も革靴を履いていたのが特徴です。
一方の薩摩軍はこのような出で立ちで、足元がわらじです。
西南戦争は、明治10年2月17日、西郷隆盛、桐野利秋、村田新八が
薩摩を発つところからが始まりと考えると、本当に寒い時期です。
冬の雪道の行軍でした。わらじが濡れたり、切れたり、
どんなにか辛かったでしょうね。
戦闘服だけでなく、もちろん武器の違いもありました。
官軍が使っていたのは「スナイドル銃」という元込め銃。
薩摩軍は旧式の「エンフィールド銃」という先込め銃。
命中精度も、薩摩軍のほうが悪かったそうです。
西郷さんの言葉「敬天愛人:天を敬い人を愛す」
直筆の書がありました。
最後の選択が正しかったのか・・・
西郷さんほどの人が時局を誤ったのか、暴発した急進派の若者たちと
なぜ行動を共にしたのか、私はよくわかりません。
最後に賊軍となって散っていったのも、天の定めなのでしょうか。
田原坂の戦いで敗れてからは、ずっと敗戦を重ねていきます。
熊本から宮崎へ、そして鹿児島城山で決死の戦いが行われますが
9月24日、官軍が城山を総攻撃。西郷、桐野、村田らは
戦死して半年以上にわたるこの戦いが集結します。
ガイドさんの詳しい案内もあり、約1時間こちらの資料館に
いました。でも本当に胸が苦しくなるような感じでここを
後にしました。
この記念館周囲には多くのお墓や史跡もあります。
そして、風化させてはいけないのはその歴史だということも
わかります。幕末、明治を語るに、ここを訪れてみるのは
とても有意義なことでした。
田原坂
雨は降る降る じんばは濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年
山にしかばね 川に血流る
肥薩の天地 秋さびし
桐野利秋についてはこちらに書いています
植木町田原坂資料館
開館時間 9:00〜17:00(月曜日休館)
入場料 210円
熊本県熊本市植木町豊岡862 九州自動車道植木I.C.より車で20分
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