福岡

2018年博多祇園山笠の飾り山に!

博多祇園山笠の季節です。

本番7月14日を前に、市内14箇所で飾り山や舁き山が見られます。
元々、疫病で苦しんだ博多の人たちが、災い封じとして始めたお祭りです。戦国時代が終わって焼け野原になった博多の街を復興した、太閤秀吉に感謝して、飾り山の題材は「太閤秀吉」、また黒田52万石を与えた幕府をリスペクトして「関ヶ原の合戦」など、そういう戦国時代ものがメインです。
ところが、今年のラインナップに「おぉ!」と思うものがありました。
千代流れの飾り山です。


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ここに書いてあるのは、「維新回天 石堂橋」
維新はともかく「回天」とは、どこかで聞いたような・・・
そして、石堂橋という地でのエピソードとは?
早速出かけてみるのでした。
場所は、福岡市博多区千代の地下鉄・県庁口のところです。
あぁ〜!やっぱり! すごい
もう興奮です。
まさに、高杉晋作と野村望東尼ではないですか!
幕末!しかも高杉晋作をメインにしたこのテーマ
長い祇園山笠の歴史の中でも、初? なのではないでしょうか
今年は、「維新150年」ということで、制作に至ったようです。

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書かれている文章は
二番山笠 千代流
飾山 見送り 『維新回天 石堂橋』
 今年は維新から百五十年となります。
幕末・元治元年、馬関戦争のあと、四カ国講和の長州方の代表だった高杉晋作は、幕府側と過激攘夷派から命を狙われることになります。そのため高杉は福岡藩の勤皇志士の勧めで福岡城下に逃れました。上鰯町(今の須崎町)にある、回船問屋の石蔵卯平宅に匿われました。ここで、筑前の月形洗蔵や早川勇という人たちと出会います。
その後、平尾山荘の野村望東尼に匿ってもらいます。
平尾山荘にいたのはわずか10日間。そして、平尾を出て、今の呉服町あたりに潜伏先を変えます。
今の千代町にあった水茶屋に潜伏し、このとき博多へ入る為に石堂橋の関所を通らなければならなかった高杉は一計を案じます。
 そこで遊んだ商家の若旦那を装い、幼女をおぶって、幼女の袖で顔を隠して関所を通過したのです。
 



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お人形はこんな人たちが配置されています。

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まず晋作さん!
芸妓をおぶって関所破りをして石堂橋を渡ったと解説してあります。
これはちょっと違うので、後でまた。

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お次は、なんとも若々しく色っぽい望東尼様
平尾山荘も、歌舞伎の舞台みたいです。

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この高杉晋作、筑前潜伏の物語は、元治元年(1864)11月のことです。
元福岡藩士の江島茂逸という人が書き残した、『高杉晋作傳入筑始末』という本があります。
それによると、晋作は11月10日から21日まで、平尾山荘に潜伏。
その後、石堂橋の新茶屋「若松屋」に入る。ここで、月形洗蔵を待つが、彼は来なかった。五卿の太宰府移転などの問題で手間取り、なかなか忙しかったのである。
そこで、山荘で高杉の身の回りの世話をしてくれた瀬口三兵衛が、若松屋の提灯を持ち、高杉は若松屋の半纏(はんてん)を着て、5〜6歳の幼女をおぶって柳町遊郭に行く。
とあります。
なので、「芸妓をおぶって」という説明、が惜しい!


これは、遊郭があった柳町あたりの古写真です。
晋作は、このあと宗像の早川勇を訪ねたりして、11月25日に下関に戻ります。

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晋作が博多にいたのは約20日間ですが、筑前藩士や博多商人たちに守られ、餞別や軍資金までもらって、帰るのです。
博多ですっかりリフレッシュした後に、功山寺決起へ向かいます。
彼の輝かしい偉業の陰には、こうした筑前の人たちがいたことを知ってください。
維新150年の今年、こうして博多祇園山笠の飾り山のテーマになる
なんと素晴らしいことでしょう!
高杉晋作と野村望東尼の物語を取り上げてくださって、千代流さんには深く深〜く、感謝申し上げます。
千代流の飾り山は、博多人形師の川崎修一さんの作品です。
15日には山解きといって解体されるので、ぜひとも本物を見てほしいと思います。
場所は、福岡市博多区千代  地下鉄「千代県庁口」を降りてすぐです。



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野村望東尼150回忌 〜2017年晋作伝プロジェクト・筑前ツアー

2016年11月6日は、望東尼様の150回忌でした。

150回忌を記念して、全国から寄せられた寄付をもとに、
素敵なレリーフが完成。除幕式と法要に参加するツアーを
催行しました。

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平尾望東会の会長、そして、作家の谷川佳枝子先生、元福岡
市長の吉田さんによる除幕式です。


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なんと、高杉と望東尼の別れのシーンで、手縫いの着物に
添えらえた和歌が刻まれたレリーフでした。


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この碑に文章を書かれた谷川先生の言葉が印象的でした。
「これからこの平尾山荘は、望東尼ファンだけでなく、全国から
晋作ファンも来てくれる史跡になりました。」
本当にその通りだと思います。


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ツアー参加者みんなで記念撮影。
この碑の裏には、募金をした人の名前が刻まれていますが、
何人もの仲間が、「自分の名前が刻まれている」のにも感激!

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さて、法要は午前で終わりましたので、中洲に移動して
「大阪屋」さんでランチ。
そこでは、博多券番さんのお座敷遊び付きです。
晋作さんが筑前から馬関に帰る前に、やはり博多の
柳町遊郭で遊んで帰ったということで・・・
皆さんと、博多の「粋」を楽しみました。
桜子さん

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お座敷遊びは、「こんぴらふねふね」をリクエスト。
晋作さんが大好きだった歌です。
歌に合わせての勝負!
負けたら、お酒を飲むか、脱ぐ!
ツアー仲間はほとんど負けました。
でも、お一人券番に勝った人もいました


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地方の司さんと、はと奴さん。
はと奴さんのお声がとてもよかったです。

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そして、記念撮影。
この晋作伝ツアーは、芸妓さんがお約束、のようにも
なりました。2013年には、長崎検番さんat花月。
そして今年の春は嶋原太夫でしたしね

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楽しい時間を終えて、その後は博多の町歩き。
高杉晋作一行が上陸した須崎町の「石蔵卯平宅跡」
それから、博多の豪商・神屋宗湛、島井宗室、大賀宗九の
屋敷跡などを通って、関所跡、柳町遊郭跡、そして高杉晋作
ジョギングロード(その通りを走って逃げたと言われる・・・)などを
みんなで歩きました。

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博多のあちこちにこのような電信柱の史跡ガイドがあるのです。
高杉さん関連は平尾山荘と、この博多区の呉服町界隈に
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このあと、日本最古の禅寺・ 聖福寺、加藤司書墓所がある
節信院などをお参りして、櫛田神社で解散となりました。
駅前の「道路陥没事故」が起きたのはその2日後でした。
あの近くまで歩いたので、すごくびっくりしましたね。
本当に、ツアーでは事故もなく、無事終わって何よりでした。
前日の夜は、岩城朋子さんの語り芝居 「面白きこともなき世を
面白く  望東尼・想」、そして、東えみ先生の筑前琵琶の演奏を
楽しんでいただきました。
望東尼様の150回忌、こうしてみんなでお参りできて、とても
有意義な二日間でした。
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2013年の総括!

「2017年晋作伝プロジェクト」をスタートして2年目。
今年は本当に色々なことがありました。
まず、4月の東行忌。全国の晋作ファン30名近くがご参加で、山口と
下関のツアーを敢行。
東行庵でのトピックスは、高杉家の現在のご当主・高杉力(つとむ)
さんとお母様にお会いすることができました。今までクローズして
いた東行記念館が久しぶりに再開ということで、テープカットが行
われ、そのために来関されていたのです。一緒に記念写真にも納まって
頂きました。
11月6日は、野村望東尼様の祥月命日で、福岡の平尾山荘で「望東祭」
が行われます。午前にこちらのお参りをした後、下関へ。
この日、桜山神社で「奇兵隊供養祭」が行われ、ここで記念講演を
させて頂いたのですよ。テーマは、『高杉晋作と筑前藩士』
奇兵隊とは関係ないのですが、主催者の下関青年神職会様から、
「筑前の人たちのお話をしてください」と大変嬉しく、光栄な
ご依頼でした。望東祭と奇兵隊供養祭、このふたつが同日に
行われるご縁の不思議さを感じました。
夕方に桜山神社の本殿の中で神事が執り行われたのですが・・・
突然、玉串奉奠のご指名を受けまして、慌てたこと
終わりの二礼二拍手一礼を忘れる!などの恥ずかしい失敗は
ありましたが、夢のような時間でした。松陰先生、高杉東行さん、
そして奇兵隊士たちのご英霊が眠る聖地での150年を記念した
神事に参加させて頂いたことは一生の思い出となりました。
その後神社会館で行われた講演会には、満席になるほどの
たくさんの方にお越し頂きました。その後、直会があり、
そして馬関浪士会の方たちとまた打ち上げ。
来年の春のツア−のお話もでき、本当に有意義な一日でした。
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 作法の失敗に視線をバシバシ感じながら・・・
さて、11月は今年のプロジェクトの締めくくりでもある
「晋作と龍馬が愛した長崎」ツアーを行いました。11月23・
24日の2日間、またまた全国の皆様40名くらい集まって頂き、
楽しんだわけであります。
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これは、史跡料亭「花月」のお玄関で、高杉、坂本、岩﨑の
上得意様3名の写真に皆さん、食い入るの図!
花月さんは、文句無しに素晴らしかったです。
検番さんたちとお座敷遊びもしたんですよ
事前にリクエストしていたのですが、「三千世界の烏を殺し」
るり羽姐さんが歌ってくださった時は鳥肌たちました。
あと、「こんぴらふねふね」とか・・・
本当に晋作さんが降りてきて一緒に楽しんでいるような
夢のような時間でした いや、きっと来てたな・・・
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お料理もさすがでしたね〜。卓袱料理、初めて頂きました。
今回の長崎ツアーでは、長崎龍馬会の皆様とも交流ができ
たのです。来年の下関ツア−にもご参加くださるという
嬉しいお話も頂いています。
さて全部は書ききれませんので、上記に紹介した「高杉晋作
ファンサイト」で長崎ツアーの様子などご覧ください。
西鉄旅行のb-sideというブログの中でも読めます。
さて、来年の予定ですが、3月29・30日には萩と下関の
ツアーを予定しています。
東行庵に新しい高杉晋作像が完成するんですよ。その銅像の
除幕式に合わせたツアーを企画しました。ぜひ一緒に見に
行きませんか?! また詳細ができましたら、このブログ
でも御紹介しますね。
高杉像の製作過程の紹介、そして銅像の寄付金についての
ご案内など、コチラのサイトでご覧ください。
   http://www.tougyouan.jp  (東行庵のHPです)
それでは皆様、今年度最後のブログになりました。
(ほとんど書かずにおりましたが)
来年は、このようなことがないよう、精進して参りますので、
ぜひとも続けてご愛顧のほどお願いいたします。
良いお年をお迎えくださいね!

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高杉晋作を歩く〜博多編その2〜

7月に入り、博多の町は山笠一色になってきました。
福岡の中でも山笠のメインステージである博多地区は商人の町。
ここにも、高杉晋作を匿ってくれたり、援助してくれた
志のある人たちがいました。

高杉晋作が筑前藩の脱藩藩士・中村円太と共に筑前入りしたのは
元治元年の11月4日。
この時、上鰯町(かみいわしまち:旧町名)の対州問屋の
石蔵卯平が迎えたそうです。

今でも石蔵商店として、博多川沿いにお店があるんですよ。

ここに、月形洗蔵が会いに来ます。
そして、肥前田代の平田大江に面会し、九州統合の説得をしに
行こうという話になります。

そして、11月6日、田代に行くのですが失敗。
石蔵屋にもどりますが、ここで謎が・・・

月形、鷹取養巴、平野国臣、早川養敬、そして西郷隆盛に
会ったと記録に残っているそうです。
その前に平尾山荘でも西郷‐高杉会見があったと
記録に残っています。
そしてその後、下関に戻ってからも、稲荷町の大坂屋で
西郷-高杉会談があったと。。。

しかし、『防長回天史』には西郷-高杉は終生面識なし、と
言い切っています。

ここのところはどうなんでしょうね


話を元にもどして

高杉晋作が元治元年、平尾山荘を抜け出て、この博多の町に潜伏したのが
約4日間。 その間の足取りが最近やっとわかってきました。


平尾山荘から少し急ぎ足で歩くと、最初に潜伏した石堂橋あたりの
水茶屋「若松屋」後に「常磐居」まで約2時間の道のり。

全く違うと思うけど、そのあたりに「水茶屋」という
古めかしい喫茶店発見!

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それから、その目の前にあるのが関所跡です。
今の石堂大橋あたり。

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若松屋で月形洗蔵を待っていた高杉でしたが、待てど暮らせど
現れないのでついに関所破りを決行
変装の名人だった(?)高杉さんは、若松屋の使用人が着る
半纏を着て、5〜6歳の女の子をおぶって、遊郭に用事がある
ふりをして関所を突破したようです。

現在の「大浜公民館」
このあたりが、旧柳町遊郭街(その後移転して新柳町ができた)です。

柳町の「梅が枝屋」というところを根城にしていたようですね。


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このあたりの地図はこちらの博多古地図でご覧ください。


結局11月25日に、下関に戻ったと言われています。


この間、筑前藩士たちの動きは目覚ましく、月形、中村、早川などは
功山寺に行き、五卿の九州移転を説得。
諸隊にも説得しますが、彼らはあくまで反対。
「西郷、来るなら来るべし。馬関の海峡は彼が三途の川になるべし」と
いきまいてますから、それはそれは大変な苦労をしていた。
筑前藩士たちのねばりもすごいものです。


高杉晋作といえば・・・
稲荷町に潜伏していました。
そして功山寺決起までのカウントダウンが始まります。


この写真は、下関の稲荷町遊郭跡あたりのサインです。

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高杉晋作が逃亡した足跡を辿るのも、またとても興味深い体験でした。


このあたり、もう少し詳しく調べてみたいと思っています

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高杉晋作を歩く、博多編

今日は、facebookのお友達サワコさんの御紹介により
「はかた博物館」電柱歴史案内2000年本プロジェクトの
イベントに参加してきました。

博多区の御笠川と那珂川に囲まれた、博多の玄関口ともいえる
呉服町周辺を中心として、中世の商都であった博多、
幕末、多くの志士達が交流した博多のエピソードを
電柱にサインとして貼付けていく活動などをされています。

元治元年(1864)11月に平尾山荘を辞して、下関に帰るまでの
高杉の足跡を巡るルート。大変興味深いものでした。
同時に博多の昔の街並や歴史を感じることもできました。


古地図を見ながら、大博(たいはく)通りからスタートです。

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山荘を出たあと、高杉晋作は御笠川沿いにある「水茶屋」に
潜伏したといわれています。


まさにその地にある、水茶屋という喫茶店を発見


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それから、水茶屋の店の半纏を着て女の子を背負って町人スタイルで
関所破り、そして当時の遊郭街「柳町」に潜伏。
ここで月形洗蔵を待ったと伝えられています。


柳町遊郭のあったあたりは、今マンションが建ったり、
この大浜公民館などがあります。


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電柱に色々と町のストーリーが書いていますが、
ぜひこちらからご覧ください。


アルバム(facebookより)


功山寺決起につながる、筑前からの脱出。
どんな径路だったのか、という以前からの疑問が解けて
最高にうれしかったです。
立石さん、サワコさん、ありがとうございました。


さて、今日学んだコースは、7/7(土)に私がご案内します。
原三信病院前を朝9時にスタート。
ぐるっとまわって、天神まで行きます。
詳細はまたお知らせしますね。

参加希望の方はぜひお知らせください。
 baisho62@gmail.com まで

また電柱は現在59本。様々な歴史を語っていますので、
ご興味のある方はこちらにお問い合わせください。


 このはかた博物館の詳細についてのお問い合わせ先
  ハカタ・リバイバル・プラン
  福岡市博多区大博町4-32 立石さん 092-281-4008

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ブログのオフ会でした

12月に入りましたね。
最初の土曜日の今日、私のブログにコメントを寄せてくださり、
先日は平尾山荘の町あるきに参加してくださった方達と
天神で集まりました
全員が近くに在住だったというのもオドロキです。


るっこらさん、亜美さん、梅子さん *年齢順


いずれも個性豊かな「なでしこ」たちで、私たちは「高杉晋作を
熱く語る」女子会を行ったのでした。
そして、ひとつの固い誓いを行いました。
まるで、松陰先生の改葬を行った際の高杉の決意表明のような!
「先生の亡骸を前に改めて誓う!僕たちが幕府を倒す!」という
あの物語のシーンです。
(クーデターをおこすわけではありません
ご安心ください)


その内容に関しては、来たる12月15日に正式にお知らせしようと
思っています。ぜひまたこのブログにいらしてくださいね


写真は、3日前に通りかかった平尾山荘の紅葉です。
今年はきれいなところが撮れました。
燃えて燃えて、自身を真っ赤に染めて散っていく紅葉のような
生き方をした、と童門冬二さんが高杉を表現していました。
その通りだと思います。
この山荘に住んで、高杉晋作に出会ったばかりに壮絶な晩年を
おくった野村望東尼さんもそんな生き方でした。


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天拝山の頂上、高杉晋作の歌碑!

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これはあまりに有名な、菅原道真公の歌ですよね。

 春風が吹いたならば、風に託して筑紫にいる私に匂いを届けておくれ
 梅の花よ。たとえ家の主人がいなくなったとしても、花の咲く春を 
 忘れるなよ。


今日は、筑紫野市観光協会長 久芳康紀さんにご案内頂き
天拝山とそのふもとの寺社を訪ねる半日の山登りに参加しました。


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紫藤(しとう)の滝

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太宰府に流された道真公は、この天拝山のふもとの滝でみそぎをされて
それから山に登られたそうです。
昔は「天判山(てんぱんざん)」という名前だったそうですが、
道真公が都のほうを向いて拝まれたので「天拝山(てんぱいざん)」に
なりました。

と説明をされる久芳会長さん。御年83歳

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行きは「開運の道」、帰りは「天神様の径(みち)」
どちらにも1合目から2合目、3合目・・・と歌碑があります。

普通にハイキングロードとしても、区切りがあるので
わかりやすくていいですね

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そして、私が楽しみ〜にしてたのがこれです!

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イメージと全く違っていましたが、高杉晋作歌碑であります!


久芳会長さんから頂いた資料の中から、そのまま紹介します。

道真公が天拝山頂上の「お爪立(おつまたち)の岩」に上がって、
都の方を向かって祈祷されました。無実の罪が晴れて、都に戻る日が
くること。また国家安泰を願って。
その「お爪立の岩」を石柵で囲った傍らに、昭和5年当時、武蔵温泉
「大丸」の山田大助社長により立てられた小型の碑で「霊魂在天拝之峰」

幕末長州の勤王志士、高杉晋作は野山獄の囚中にあって次のように詠じた。

  君見ずや 死して忠鬼となる 管相公
  霊魂なほ 天拝の峰に在り
  又見ずや 石を抱きて流れに投ず 楚の屈平 
  今に至りて人は悲しむ 泪羅(べきら)の江(うみ)
  古より讒間(ざんかん) 忠節を害す
  忠臣は君を思ひて 身を懐はず(おもはず)
  我もまた 貶謫幽囚(へんたくゆうしゅう)の士
  二公を思ひおこして 涙胸をうるおす
  悼むを休めよ、むなしく讒間の為に死するを
  自ら後世 議論の公なるあり


この長い漢詩の二行目の一文が刻まれているのです。
ちなみに高杉晋作が天拝山に登ったという史実はありません。

  

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天拝山の眺望です!


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太宰府の街並、また水城の堤防が横一文字の緑で見えます。


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山を下っていくと、武蔵寺(ぶぞうじ)という九州最古のお寺の側に
「御自作(ごじさく)天満宮」があります。


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道真公が自らの姿を手彫りしたという、等身大のお像が安置されて
いるお寺です。
小さいですが、瀟酒ですごくいい雰囲気の天満宮でした。
余談ですが、天満宮は日本全国で12620社あるそうです。
八幡宮の8500ちょっとをダントツ抜いて、いかに天神信仰が
日本中で多いかを表しています。


久芳会長さん!ありがとうございました
天神崇拝をしていた高杉晋作がここでも!
教えて頂かなければ、誰もしらないままになってますね。

久坂玄瑞の歌を教えてくださったり、まさに生き字引な方です。

お問い合わせ
 筑紫野市商工観光課
   福岡県筑紫野市二日市西1-1-1
   092-923-1111

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博多祇園山笠が始まりました

七夕も過ぎたというのに、ここのところ忙しくて
ブログも全く更新していませんでした。
ちょっと取材に行く時間もとれないのですが、
アクセスしてくださる皆様に、暑中お見舞い申し上げます
なぜか九州を通り越して、中国・近畿・四国などは梅雨明けしたんですね。

この時期の博多の町は、まさに「山笠」一色です。
梅雨時期でもあり、ムシッとした空気に包まれて
7月1日から市内のあちこちに飾り山が。
法被姿のお兄さんたち、祭りに参加する人たちはこの期間、
改まった場所に行くにも長法被(ながはっぴ)姿は正装です。
特に今年は節電だから、涼しくていいかも


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この山は、市内を実際に走る「かき山」です。
一番流れの西流れ。人形のテーマは「長政博多入り」
豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛(如水)の長男の長政は
関ヶ原の戦いで一番の功績をあげ、徳川家康から
黒田52万石を与えられます。
その長政公の堂々とした姿を表現しています。


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博多総鎮守「櫛田神社」の大祭である博多祇園山笠。
ここが櫛田神社の表で、今は本番に向けて社内の準備が進んでます。
清道(せいどう)・・・7つの山が順番にスタートするところです。


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明治通りから入って、櫛田神社までの土居通り。
提灯がずらっと下がって、華やかな祭り気分を盛り上げてます。
きらめく夏の博多を感じるこの界隈。いいですよ〜
今年は博多山笠誕生770年という節目の年だとか。
鎌倉時代に、疫病除去の祇園信仰から始まった祭りですが、
今年は「復興の祈り」を込めてさらに勇壮な姿を見せてくれそうです。

 お祭りの情報はこちらから


高杉晋作と全然関係なかったけど、最後まで読んでくださって感謝

かなよも見てください。

  高杉晋作〜かなよ〜

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天神様に自身を重ねた高杉晋作

高杉晋作が天神様信仰が篤かったというのは有名な話ですね。


藤原時平による讒言により、都から遠く九州の太宰府に流された
菅原道真公。その亡骸の上に現在の太宰府天満宮の本殿がある
そうです。
道真公が亡くなられた日には、山口県防府市の酒垂山に瑞雲がたなびき、
勝間の浦には神光が降りたため、公の御霊がこの地にとどまりたいと
思われているとして、延喜4年(904)に防府天満宮が創建されました。
そして京都でも長雨などの災害、疫病などもはやり時平やその周辺の
人たちが早逝するなど不幸が続いたので、北野天満宮が創建されました。

そして、福岡市内にもいくつか天満宮があるのですが・・・

その代表がここ水鏡天満宮です。
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そう、福岡の天神という地名はこの神社からきているというわけです。
場所としては、市内の人ならわかる、アクロス福岡の前ですね。
それと、この神社の位置は福岡城からみて東北(鬼門の位置)に
あり、福岡城の守りとなっていることがわかります。

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菅原道真公を人間「菅原道真」として崇めて心の支えに
した上に、維新の原動力にしたのが高杉晋作でした。

それは後年の自分に重ね合わせたからでしょう。
功山寺決起の前に、「死んでも赤間が関の鬼となって」と
と言っていましたが、それも道真公を彷彿とさせます。


幕府の視察団に長州藩代表として上海に渡ったり
その翌年藩主から下関防御を任されたり、奥番頭として
藩政の中枢に関わった上160石を受けることになったりと
異例の出世をします。
ところが元治元年にある失敗から野山獄に投獄されました。
まさに妬まれて失脚させられた菅公のようです


野山獄では

「君見ずや死して忠鬼となる菅相公
 霊魂は尚存す天拝峰
 又見ずや石を懐にして流れに投ず
 楚の屈平」

で始まる漢詩を作っています。
天拝の峰は菅公の眠る太宰府の山。
また失脚して、石を抱いて投身自殺した楚の屈平、という風に
いずれも忠臣なのに讒言によって理不尽な最期を遂げた二人を
自分の身の上に重ね合わせているようです。

 水鏡天満宮
   福岡市中央区天神1丁目15-4


雨上がりの夕方、通りかかりましたのでご紹介しました。

菅原道真が京より大宰府に左遷される道中で博多に上陸した際、
四十川(現在の薬院新川)の水面に自分の姿を映した場所、
今泉(中央区今泉)に社殿が建造され「水鏡天神(すいきょうの
てんじん)」「容見天神(すがたみのてんじん)」と呼ばれました。
江戸時代初期の慶長17年(1612年)福岡藩初代藩主黒田長政に
よりこの地に移転されました。


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まだある秘話、そして福岡のパワースポット

ここのところずーっと雨です。
書いてる間に日付が変わってしまいました
29日は台風の影響で、福岡市内も運動会やら何やら色々中止。

私も実は、「天拝山に五卿の句碑を訪ねて」というハイキングに
参加する予定の日曜日でした。
前日主催者の方からキャンセルを伝えられたのですが、
このハイキングの内容、とても良かったのです。

筑紫野市の武蔵寺(ぶぞうじ)に10時集合。
それから天拝山の登山道あちこちにあるという
五卿や管公の句碑の解説して頂きながら登山。
そして、頂上にある高杉晋作の句碑を目指そうと
いうではないですか

太宰府は菅原道真公が流されたところ。
天拝山は管公自ら、自身の身の潔白を京へ訴えかけるため
100日間毎日山頂へ登ったと言われています。


陰謀により遠く太宰府の地に流された管公の心情、
それは五卿の人たちも、野山獄に下った高杉晋作も
自身と重ね合わせていたようです。


さて、話かわって・・・

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この方は陶山一貫斎(すやま いっかんさい)という方です。
その子孫の方から、陶山家は当時、五卿のお世話をしていたと
聞きました。
高杉晋作の書簡なども預かり、秘密裏に五卿たちへの
橋渡しの役目をされていた方だそうです。


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確かに、太宰府天満宮の中にあるここ延寿王院で五卿さまたちは
暮らしていたのですが、ここに、高杉やら西郷やら龍馬やらが
訪ねてきたのでは、あまりにもおおっぴらすぎますよね
倒幕の相談をする密会が常に延寿王院で行われた、ということを
全面に信じるのはおかしい話でした!

つまり、地元の有力者たちが強力して、密会場所を提供したり
通信の取り持ちなどをしていたそうです。

このお話、今日のハイキングが実現されていたら
もっと詳しく聞けるはずでしたが、残念です

また後日に開催予定ということで、その際に詳しくご紹介します。
中途半端なブログですが、台風一過の雨の夜のことでして
お許しくださーい o(_ _)o

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