高杉晋作伝入筑始末、前半
元治元年11月に、中村円太とともに九州へ逃れてきた高杉晋作。
先日のブログで書きましたが、福岡の上鰯町の対州問屋の主人
石蔵卯平という勤王の商人が迎え入れてくれました。
そこで筑前藩士・月形洗蔵から「早川養敬が、肥前田代の平田大江に
面会し、九州統合の説得をしに行った」と聞きます。
そこで高杉も11月6日に肥前田代(現在の佐賀県鳥栖市)に
行くことになります。
私は、以前からこの「肥前田代」が気になっていました。
実は、この田代という地域は、対馬藩の飛び地だったのです。
九州に潜伏するとなると、当然、長州藩士は行くでしょうね〜。
この田代町の往時の様子。
右上の昌町からずっと下って、高杉が訪れた代官所跡などを
通ってみました。
*写真をクリックして頂くと大きく見れます。
現在も鳥栖市は、九州の大動脈である九州自動車道、大分自動車道、
長崎自動車道の3つの高速道路のジャンクションなのですが・・・
幕末の頃のジャンクションがここです。
昌町の「追分石」というそうです。旧国道3号線沿いにあります。
左こくら・はかた
つまり追分石の左方面に行くと博多の方へ。
しかし、この道はメインストリートですから、
追われ人の高杉がここを通って来たかは疑問です。
右ひこ山と書いてありました。
右に行くと、日田・英彦山、そして秋月街道にもつながっていきます。
ちょっと前置きが長くなりましたが、
平田大江という人は、この田代にあった対馬藩の代官所の代官も
つとめていたのです。対馬藩の家老でもありました。
代官所があったのが、ここ 今は田代小学校です。
代官所跡のサインに、当時の間取りなどがあったのですが、
かなり広いお屋敷でした。やはり九州各地からの勤王の志士達が
ここに集まったのは不思議ではありません。
別の話ですが、桂小五郎も平田大江を訪ねてこちらに来ています。
高杉家の「武田菱」に似ていますが、こちらは「四つ目結」という
家紋。対馬宗家のご家紋が、小学校の校章にもなっているそうです。
そして、その代官所の門はなんと健在で、当時から黄櫨鑞などを
商っていた津田さんのお宅に移築されています。
これです!
立派な御門ですね〜
本瓦です。素敵〜 中のお宅も大変立派でした。
これが代官所の御門だったという証拠が、門の上にありました。
あの、「四つ目結」紋です。
鳥栖は、富山のように製薬が盛んだった土地でした。
あのサロンパスで有名な久光製薬も鳥栖に本社があります。
対馬藩の藩校?塾?というべき「東明館(とうめいかん)」跡があります。
この空き地の前が久光製薬の社長のご自宅でした
話がそれてしまいましたが、今でしたら車で博多から約1時間。
でも、高杉が期待に胸を膨らませて行ったのはそんな楽な道では
なかったはずです。
しかしここに来て、高杉が直面したのは「結局、各藩の藩論さえ
まとまっておらず、どことして高杉たちに力を貸そうという藩は
なかった」という結果でした。
「九州諸藩、頼むに能わず」と思い知った高杉は、福岡に戻ります。
そして11月10日に平尾山荘へと潜伏場所を変えるのですが、
その間の彼の胸中はどんなものだったのでしょう。
今は穏やかな田代の町。
幕末の香りは街道沿いのあちこちに残っています。
長崎街道まつりも10月21(日)に行われるそうですよ。
町歩きのお問い合わせは
長崎街道ボランティアガイド元気隊
鳥栖市観光協会内 0942-83-8415
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