上海

高杉晋作の上海報告

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遅ればせながらこういう本を読みましたので、自分が忘れないためにも
内容をピックアップしておこうと思います。


文久2年から慶応3年にかけて、実は徳川幕府は3回も上海に
使節団と貿易船を送っていたそうです。
つまり、ペリー来航以来、幕府の対外政策は大きく転換せざるを
得なくなり、世界情勢を知るにつれ、外国貿易をもって富国強兵を
考えなくてはいけなくなった、ということでした。


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「千歳丸」
これはイギリスのアーミティス号という船で、日本政府の名をもって
34000ドルで購入されました。(邦価にして約3万両)
千歳丸とは、千年使える船という意味だそうです


幕府は交易の品を長崎会所を通じて調えました。
内容は、房寒天、北海道産の昆布、南天、白糸、樟脳、干しあわび
フカヒレ、スルメ、かつお節、蒔絵印籠、高蒔絵文台、机など
食品から工芸品までありとあらゆるもの。
これらが上海の清国人に売れるかどうか、試してみることが目的。

文久2年4月29日出港。5月6日に到着しましたが、その間の
航海は惨憺たるものでした。5月1日と2日は大嵐で、船は
木の葉の如く揺れ、大浪が甲板の上に大音響と共に落ちてくる。
「諸子甚だ窮す、船毎に動揺し、行李人とともに転倒し、
船に酔う人なお酒に酔うが如く、身体を臥してほとんど死人の
如く」(高杉『航海日録』)

日本人は誰一人口を開こうとせず、たまに声を発すれば、それは
嘔吐あるいは神仏にすがる声である。大方の者がもはや助かる
心は無く、海底のもくずと消える覚悟をし、中にはお守りや
数珠を取り出して神仏の加護を懸命に祈る者もいた、という
ことですから、やはり平坦な航海ではなかったのですね


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上海に着いてから、バンドに荷揚げした荷物がどうなったかというと
オランダ領事館の仲介により、上海道台(税関)の許可をとりつけ
荷揚げしたようです。
しかし、思ったほど売れず、諸経費を差し引くとほとんど利益は
出ない貿易となりました。でも、それは最初から問題ではない。
お試しプロジェクトでしたから・・・


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日本のサムライたちは、行く所行く所でじろじろ見られ、頭の髷を
指差して腹をかかえて大笑いされる。 歩くとたくさんの清国人が
ぞろぞろあとをつけてくる。それがいやなので走り出すうちに道に
迷ったりして、大変だったとのこと。

また現在でも上海の水はちょっと注意、と言われますが、黄浦江の
濁水を飲むということで、コレラにかかって亡くなる人まででた。
しかも3人もです!
当時の上海では、この河に動物でも人でも遺骸を捨て、汚物も捨て
それでも平気で生活用水として使っていたようで・・・
よく高杉さん、無事でしたよね〜

高杉といえば、肥前の「中牟田倉之助」、薩摩の「五代友厚」と
行動をよく共にしていました。特に、中牟田とは清国兵の練兵や
兵備などを見に行ったり、イギリス砲台で始めてのアームストロング
砲を見て感激したり、アメリカ人の商店でピストルを買ったりしました。


7月5日に上海を出発する前の6月17日で『航海日録』は終わって
います。上海出発を控えて公私ともに忙しかったのか・・・
謎です。

特に、この2ヶ月の滞在で彼が得たもの。
それは太平天国の乱として有名な太平軍と英仏の討伐軍の戦いを
目の当たりにし、内乱に苦しむ清国と列強の違いを感じ、
人ごとではなく祖国日本もやがて内憂外患に悩むかもしれないと
いう将来像。華やかで繁盛している港は、すべて外国の商船や
建物であり、清国人の住居を見ると貧しい者が多く、その不潔さに
目を覆いたくなる。清国人は、外敵を防ぐ道を講じることなく、
軍艦や大砲の製造に力を注がなかった。つまりは自分たち日本人も
外敵を撃ち払うこと、とくに蒸気船の製造こそ急務だと思い知った
ようです。
なので、帰国後長崎で2万両で売りに出ていたオランダの蒸気船を
独断で注文したのでしょう。彼の行動は突飛なようで、常に今の
先を予見してのものでしたね。

上海から戻った高杉は、8月23日に京都で藩主に帰国の報告をした
後、学習院用掛となりますが、その富国強兵論が容れられずに
やがて出奔し、東北を遊歴。その後桂小五郎のはからいで江戸藩邸に
戻り、その年も押し迫った12月12日夜、ついに品川御殿山の英国
公使館焼打ち事件をおこすことになります。


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 *写真は平成18年の秋の上海旅行のものです。
  今年から、長崎-上海間の航海が始まっています。
  行ってみたいですね


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