前原一誠

前原一誠旧宅跡 目出村(小野田市)

以前から行きたかった、小野田市にある前原一誠旧宅跡。
ここは、17歳から23歳までの7年間、佐世八十郎(前原一誠)が過ごしたところです。昔は目出村といっていましたが、現在の住所は小野田市旦西(だんにし)。
細かい住所がわからないので、ナビで探しながらなんとか到着。しかし碑はあるものの、肝心のお家は全く見当たらず・・・
 
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実はこの碑がある上のほうが、佐世邸の跡だったようです。
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こんな不思議な塀に沿ってあがっていくと、一軒のお家があります。
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ここにお住まいなのは伊藤さんという方ですが、お話を伺うことができました。
(ちなみにこちらの方は前原さんのご子孫とかではありません。)
なんでも、伊藤さんのご主人のお父様が、佐世邸を買って住まわれたそうですが、台風やら老朽化で手入れが必要になり、今はすっかり新しいお家に変わってしまいました。
しかし、昔のまま残っているものがあるのです。
それは、井戸! 敷地の横にある竹林に埋もれてしまっていますが、間違いなく佐世家の頃から使われていたもの。
竹の間に、なんとなく見えるでしょうか
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それと、古い地元の新聞にも紹介されていた「柿の木」です。
写真がどうしても反転しなくて、申し訳ありません。
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ほとんど枯れかかっている老木なのですが、不思議と毎年新芽が出てくるそうです。もちろん実もなりませんが、150年以上たって、いまでも生きている。
昔、武士の家では必ず柿の木を植えた、と聞いたことがあります。
渋柿です。もちろん、保存食となるから・・・
前原さんも、きっとこの干し柿を食べたことでしょう。
しかし、今のお宅では邪魔だからと一度は切られたりもしました。そんな状況で、まだ残っていて、今回出会えたことは感動です。
現在の伊藤家は、88歳になるという奥様がお一人で住んでいらっしゃいます。
私が訪ねた時に、ご親切にいろんな資料を見せてくださいました。
その中で、これ!
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なんと、佐世邸の間取りです。ご主人のお父様が住んでいらっしゃったので、忘れないうちに、と書き残してくださったようです。有り難い〜。
そして、小高いこのお家から素敵な塀に沿って下の方に降りて行くと、
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なんと! 佐世家が使っていた登り窯です。
昔ながらの窯の跡、すごいものが残っている。驚きました。
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伊藤さんのお家の塀も、実はここで焼かれた陶器を使ったものだそうです。
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佐世八十郎は、萩から目出に戻る途中に馬から落馬して大けがをし、それが後年にまで障害となって残るわけですが、特にここで家業の製陶などをしていた時が、一番不遇な時期だったようです。
「今の自分は井の中の蛙のようなものだ。心が乱れて仕方がない。粗末な家の中で何もできない自分に対して苛立ち、悲しみ、胸が張り裂けそうな毎日だ」
唯一花瓶の中の花を見る事で心を慰めている、と日記に記しています。
しかし、時は佐世を見捨ててはいませんでした。
父・彦七が藩主の駕篭廻りの段取役で、駕篭奉行役を命じられ、八十郎も父に付いて萩に帰り、松下村塾に入ることになったのでした。
24歳でやっと生涯の師・松陰先生に出会い、それからは時代の変化の中で生き抜いていきます。
「八十は勇あり、智あり 誠実人に過ぐ
 所謂布帛栗米なり
 適くとして用ひられざるはなし
 その才は実甫に及ばず
 その識は暢夫に及ばず
 しかれども其の人物の完全なる
 二子も亦八十に及ばざること遠し
 吾が友肥後の宮部鼎蔵は資性八十と相近し
 八十父母に事へて(つかえて)極めて孝
 余未だ責むるに国事を以てすべからざるなり」
松陰先生の言葉です。
そして、八十郎は先生の「至誠」を一番純粋に受け継ぎ、名前の「一誠」もそこからとりました。
その後は、以前書いたブログの中に紹介しています。
前原一誠が亡くなってから、すでに150年近くたっています。
彼の復権はぜひにと、願いたいものです。

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友人・前原一誠のこと

 先日、高杉晋作の手紙を色々と調べていたとき、

桂さん宛で

「佐世八十郎(後の前原一誠)を救いたい」というものを発見しました。

そのきっかけで、前原一誠について知りたくなったので、色々と
調べてみました。今回はそのお話です。
この時期の長州藩は、正月からの改革派と俗論派の「大田・絵堂の
戦い」が終わり、高杉たちの勝利により藩論を「倒幕」とし、政治が
めまぐるしく変わっている頃でした。藩政府に出ていた士族の佐世は、
旧俗論派と改革派の板挟みになり、ややノイローゼ気味でした。
慶応元年9月25日に書かれた、その手紙の肝心な部分ですが・・・
「結局を附けさせらずては、中々一統し居らざる様愚按まかりあり
候。佐世も当分は弟(自分のこと)と同居の覚悟に存知候間、御安
心下さるべく候。帰山論もござあるべく候えども、来原の跡を踏み
ては相済まず候間、弟へ当分預け下され候よう希い奉り候。
もし、弟に関地事おおせつけられ候ようなれば、佐世同勤に仰せつ
けられ候えば、千万ありがたく存じ奉り候」
藩政府の中で苦しんでいる佐世を見て、下関の自分のところで預か
りたいと願いでている手紙です。来原良蔵がかつて長井雅楽の航海
遠略策に賛同したと批判され、自刃したことを引き合いに出して、
思い詰めた佐世が同じことになるのを心配しているのです。
この要望は聞き入れられ、佐世は2週間ばかり高杉と共に下関に滞
在し、なんとか気も晴れたようで萩の政府に戻っていきました。
前原一誠、こんな人
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松下村塾のメンバーの写真に入っているものの、「萩の乱」の
首謀者ということで、ほとんどスポットライトが当たることの
ない人。前原一誠。
しかし、松陰先生は彼をこう評しています。
「その才は久坂に及ばない、その識は高杉に及ばない。
けれども、人物完全なることは両名もまた佐世に及ばない。」 
「勇あり、智あり、誠実人に過ぐる」と。
松陰先生のもとで学んだのはわずか10日間。松陰先生に
感動した佐世は、その教えを心に刻みました。
それは、「仁政」。 人に対して優しい政治。
後に佐世は、全身全霊を傾けそれを実行しようとします。
松陰先生は、自分の志を継ぐ人があれば、死などとるに
足らないと言い、その志を継いだのが、佐世でした。
「至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり」から
とった名前、26歳の時に前原一誠と改名します。
彼は士族の出身なので、高杉はここ一発の時に、やはり頼りに
していたようです。前原も年齢は5歳年上でしたが、高杉には
大いに惹かれるところがあったようで、功山寺決起の時に
は、単騎で一番に駆けつけているのです。
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あの夜、前原一誠は、こんな詩を詠んでいます。
「子十二月十六日、国賊某を新地に襲う馬上の作」と
いうことで、高杉ファンならどこかで読んだことのある
この詩です (最初の文は略します)
 
 凛冽の寒風、面まさに裂けんとす
 馬蹄 踏み破る満街の氷
この決起の前に行われた徹夜の軍議にも参加していました。
馬に乗って、石川小五郎よりも伊藤俊輔よりもいち早く功山
寺に駆けつけ、行動を共にします。そこから生まれた詩である
ことは間違いありません。これ、ほとんど知られていないところ
なんですね〜
そもそも、一誠は山口に落ちて来た七卿の用掛もしています。
その時に知遇を得た三条実美や壬生基修らは、彼の後半の
人生におおいに関わっていくことになりました。
さて、小倉戦争では参謀心得として参戦、高杉が第一線を退いた
後には、高杉の替わりとして参謀を務めました。(ここ、大事。)
諸隊の中でも、武士の一団である「干城隊」の総督を務め、明治
元年の戊辰戦争では会津征討越後口参謀に任じられ、長岡城攻略
などに戦功をあげます。この功績によって一誠は、明治2年に越後
府判事(今の新潟県知事)となります。ここで、貧しい農民たちを
見て年貢半減などの政策、また頻繁に氾濫する信濃川分水工事を計
画するなど、大胆な仁政を行おうとするのでした。しかし、信濃川
の工事については新政府の了解を得ることができません。そんなと
ころに莫大な費用をかける、という余裕が明治新政府にはなかった
からです。
ここから、次第に木戸や大久保などから離反していきます。
その後も大村益次郎の後を継いで兵部大輔(ひょうぶだいふ)に
任じられたりもします。しかし、もともと身体が丈夫でなかった上に、
新政府の方針と合わない。三条実美や最後は岩倉具視までが出てきて、
一誠を説得しますが、最後は萩に引きこもってしまいました。
何とか中央政府に出てくる事を要請されるのですが、「病にて」を
理由に頑として出ていきません。
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写真がちゃんとした位置に納まりませんwww 
一誠さん、やはり、この姿を見られたくないようですね
ちょっと笑えるのを、一誠さんも感じてるのかな〜? 
なんか最初の面構えとは待ったく違って借りてきた衣裳
みたいで、全然似合ってないです〜
参議となって、天皇のお側に仕えるための直衣直垂というこの姿、
自分が望んでなった地位ではない。むしろ拒んで拒んで容れられず
降ってわいた災難だと言ってます。なのに、彼の成功を妬む人たち
からは悪口も言われる・・・なにもかもいやになって、萩に戻り
晴耕雨読の生涯をおくりたいと願う。
しかし、時代が一誠をそうはさせなかったのでした。
政府高官までなった一誠が萩に帰れば、地元の不平士族たちをかな
り刺激する。そう思った政府の面々は、なんとか東京に引き止め
ようとするわけです。
井上馨を弾劾しようとした江藤新平が失脚し、明治7年に佐賀の乱が
おきる。それに連なって明治9年に秋月の乱、神風連の乱、そして
萩に帰った一誠を待ち受けて、不平士族たちが集結し、ついに萩の乱
がおこるのです。時代の大きなうねりに一誠といえども抗することが
できませんでした。
かつての同志たちが、元勲になって豪華な邸宅に住み、贅沢な暮らしを
しているのを見て、我慢がならなかった一誠。
「こんなことのために、自分たちは命をかけて戦ってきたのか!」
廃藩置県、廃刀令が布かれ武士の多くが困窮してしまった時代、それを
見捨てる訳にはいかないのが一誠でした。そして萩の乱では、彼の父や
弟、また松陰の叔父・玉木文之進やその弟子たちも巻き込んで激闘が
行われます。彼等は、「武士の誇り」をもって戦った長州藩最後の武士
たちでした。
 
萩の乱はわずか3日間で鎮圧されてしまいますが、最後の最後まで
諦めない一誠は、天皇に旧士族の現状を奏上し「仁政」を実現して
ほしいと直訴するために、漁船で東京に向います。しかし、嵐を避け
ようと立ち寄った、島根の宇龍港付近で逮捕されます。そして、萩に
連れ戻され処刑されてしまいました。明治9年12月3日、享年43才。
一誠の墓は、萩市土原の弘法寺。 死後、恩赦で贈従四位。維新の
十傑の一人と数えられます。
 
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今年は前原一誠生誕180年の年にあたるそうです。
そこで、萩市松陰神社にある至誠館では、特別展が予定されています。
前原一誠生誕百八十年記念展
 「松陰先生と前原一誠」-誠実・寡黙な志士-
 ・会期:平成26年3月21日(金)から5月26日(月)まで
 
そして、萩と下関を訪ねるツアーを行います。
この特別展もコースに入っていますので、よかったら、こちらで
詳細をご覧下さい。桜満開の春の長州路にぜひご一緒しましょう。
 

Photo
 
 

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